目   次

 

第一章     出生から高校まで

誕生/ 戦争と空襲/ 父の仕事/ 小学校/  図書館と本屋/ スポーツは麻薬/ ラジオ製作とアマチュア無線/ 飛行機/ 英語とカルチャーショック/ キリスト教会/ LPレコード    / 病気とカメラ/ 高等学校/ 成績と勉強/

 

第二章     大学と磁区構造の研究

大学/ 友人/ 卒研から追い出される/ 榊研究室/ 磁区構造の研究開始/ 磁区観測装置の大改良/ 研究に対する決意/ 他人がした研究での招待/   

 

第三章     三菱電機と運輸省

三菱電機入社と研修/ 三菱電機での配属/ YACシステムの調整/ 設計図を見せない/ エンジニアの命/ 医学部受験と出張拒否/ 医学部受験後の出勤/ 受験後の臨時の仕事/ コンピュータの本の執筆/ 新しい仕事/ 自己診断プログラム AIディープラーニング/ 人間の心理/ 男とスポーツ観戦/ マクスウェルの電磁気学方程式/ コンピュータの講義と応接室/ 若者が倒れる/ 司法試験の勉強/ インチセンチの換算表/ 東大出のプログラマー/ 大型ディスクメモリ装置開発の失敗/ 関西弁とエンジニア/ 計測器の破壊/ 同期の大卒の自殺と発狂/ 高校の先生/ 退社後の元の会社への訪問/ 国家公務員キャリア試験/ 運輸省の仕事/

 

第四章 医学部進学

医学部進学/ 体育の授業/ アルバイト/ 異常に親切なY/ 私の縁談/ 生化学の単位/ 医学部図書館と英語雑誌/ 医師国家試験/

 

第五章 三菱名古屋病院

三菱名古屋病院/ 手術中の大事件/ 消化管穿孔の診断と手術/ 冠状動脈造影検査(コロナリーカテーテル検査)/ 綱渡りの治療/ 心臓超音波断層検査と名古屋大学第三内科/ 名古屋大学第三内科での超音波機器の改良/ 紫色ブラウン管と赤色フィルター/ %のわからない大学生/ 抄読会/  医師とシネカメラ/ 三菱名古屋病院での心臓超音波断層機器の導入とその改良/ 高解像度の経胸壁心臓超音波断層像の16mmフィルムの映写/ 心臓超音波断層法の欠点/ 1976年の世界超音波医学会/ 超広角度超音波セクタースキャナーの開発

 

第六章    経食道超音波心臓断層装置と超音波内視鏡の開発

経食道超音波検査と安全性の確認/ 1977年のアメリカ超音波医学会での発表/ ヨーロッパ超音波医学会での発表/ 変わった日本人/ ボロニアのパーティー/ ベネチアとフィレンツェ/ 1979年の宮崎での世界超音波医学会/ アメリカの学会と日本のメーカーのエンジニア/ メーカーの開発/ アメリカのFDAと食道での電気の漏洩/ フレキシブルチューブと回転スキャナー/ ステッピングモーター/ オイルバッグ及びオイルバルーン/ 超音波リニア断層装置/ 外科学会総会での特別講演/ 美しい心臓の超音波断層像/ 日本心臓病学会栄誉賞/

 

第七章 さまざまな事 Ⅰ

数学と医学の研究/  江橋節郎先生/ 宮川正澄先生/ サプレッサーT細胞/ American Heart Associationの学会発表とYs先生/ 巨大グループ/ 隣国の留学生/ 英語の質問/ 

 

第八章 研究と妨害

研究と妨害/ 日本での研究妨害/ プライバシー/

 

第九章 さまざまな事 Ⅱ

O社の経胃壁超音波スキャナー/ 外国人の客/ 座長の発言/ 日本の学会での「シラケ」/

 

第十章    色々な医師と検査

若い医師/ 若い先生と出勤拒否/ 医師と心電図/ 消化管穿孔と胃カメラ検査/ 尊敬すべき上司/ 新米の女医/ 冠状動脈造影と事故/

 

第十一章 大学での研究断念と国立豊橋病院

論文の別冊要求と大学での研究/ 国立豊橋病院/ 心臓カテーテル検査をやめたOo先生/ アルバイトと関西系の会社/ アメリカの学会での発表/ 三菱名古屋病院でのアルバイト/ 

 

第十二章 ドイツからの招待

ドイツからの招待/ パリとロンドン/

 

第十三章 静岡県

静岡県の公立病院/ 心室性頻拍と除細動/

 

第十四章 私立病院

私立病院/ 糖尿病/ 大学の若い先生とアルバイト/ 利尿剤と浜松医科大学の助手/ 若い先生とレスピレータ/ 若い先生と診断書/

 

第十五章 開業

開業/ コレクション/ 屏風/ オリンピック、戦争、天災/

 

 

 

 

第一章    出生から高校まで

 

 私もそろそろお迎えが来るような年齢になってしまいました。私のつまらない人生を振り返ってみると、反省すべき事ばかりです。しかし、少しでも若い人の生き方の参考になればと思い、人間そのものと、その人間が行う研究について気付いたことを書いてみようかと思っています。

 

誕生

 私は終戦(1945)5年前に愛知県の岡崎市に姉四人、兄一人、弟一人の七人兄弟の6番目として生まれました。一番上の姉とは13歳、弟とは5歳離れていました。岡崎市は名古屋市から約30㎞南東にあります。岡崎市の人口は現在40万人程度だと思いますが、その当時は10万人くらいでした。^私は7人兄弟の6番目でしたが、私は現在の幼児のように母親に抱かれたり、構われたりすることはほとんどなく、実質的には姉に育てられたようなものでした。私には5歳下の弟がいますが、母親が弟を抱いたり、世話をするのをほとんど見たことはありませんでした。私の姉に私の幼児の時はどうだったのか聞いたところ、ほとんど弟と同じだったとのことでした。幼い時の私が姉におんぶされていたことはかすかに覚えています。私が幼い時には母はわずかに母乳がでていましたが、弟の時は母が高齢だったことと、極端に食糧事情が悪かったため母乳は全く出ませんでした。もちろん戦争中で粉ミルクなど全く無く、わずかに手に入れた鰹節を私がけずり、すり鉢ですり潰し重湯に混ぜたものを、姉が弟に飲ませていました。母が弟の世話をしていなくても、私は弟が泣いたり、ぐずったりするのも見たことはありません。現在の親子関係を見てみると、親はあまりにもあまりにも子供に構いすぎるのではないでしょうか?社会に出てから親は子供を助けることはできません。現在はあまりにも誰かの助けが必要な若者が多すぎます。

 

戦争と空襲

私も戦中のことを少しは覚えています。一番記憶に残っているのは1945719日の岡崎に対する空襲です。岡崎のほとんど全市に対するB29の空襲は焼夷弾によるものとグラマン戦闘機による機銃掃射でした。以前より、空襲の時には、平地にある私の家より山のふもとに逃げる訓練をしていました。1945719日が岡崎をターゲットの空襲でした。生米一升を背中に背負って逃げるのが私の役目でした。逃げる途中でグラマン戦闘機による機銃掃射で多くの人が撃たれました。撃たれて倒れた人を誰も助けませんでした。助けようとして止まれば自分が撃たれて死んでしまうからです。助けることもできないなんてなんと悲しい事でしょう。人を戦闘機で撃つためには低空飛行をしなければなりません。したがって山の麓まで逃げれば戦闘機は追ってきません。山の麓まで逃げた人を狙えば山に激突するからです。私は逃げる途中で親からはぐれてしましましたが、泣くとか親を捜すことはしませんでした。はぐれて親を捜すより、走って逃げることに必死だったからでしょう。逃げる途中で、近所に住む大人に会い、その人と一緒に逃げました。山のふもとについてから岡崎全市が火の海になっているのを呆然と見ていました。家も家財道具もすべて失いましたが、国も市も食料支援を含めて全く何もしてくれませんでした。ただ、防空壕に米を研いでお釜に入れたものをおいていたら、それがお焦げ付きで炊けており、一食だけご飯が食べられました。人間が防空壕に入っていたら、焼け死んでいたでしょう。

 

 

岡崎空襲より前のことですが、国鉄岡崎駅と豊橋駅に出征する軍人さんの見送りは強烈な印象でよく覚えています。両駅とも一列車すべて出征の軍人さんで、それを数千人の人が見送りに行くのです。おそらく生きて帰ってこられないため、遠い親戚の私たち家族まで繰り出されたのです。まるで見送る人たちは全員葬式のようにうなだれていました。恐らく戦死して帰ってこられないだろうと全員が知っていたのでしょう。これらの多数の人が見送りに行くのはこんなに多くの見送りの人のDNAが残っているのだから諦めて死んで来いと言っているようでした。全く人生でこの時以外見たこともない異様な光景でした。 私の父はまことにありがたいことに召集令状(赤紙)は来ませんでした。私の父は結核でかつレントゲン写真で空洞が確認できる状態でした。軍隊では結核はもっとも恐れられ、場合によっては隊が全滅するとまで恐れられていました。しかし父は喀痰検査では痰の結核菌検査で菌は出ず感染する恐れはありませんでした。私の父は岡崎最大の印刷会社に勤めていて最後にはカットの絵のデザイン、毛筆での手書き原稿の作成を担当していました。

 

父の仕事

戦争がはげしくなり、国の命令で印刷会社は役所の仕事と国の仕事以外印刷禁止になり、その仕事量では社長と社長の家族のみでできるため、他の従業員は全員くびになりました。失職し、そのうえ父は結核で再就職もならず最悪でした。その間母の和服の仕立てや布団つくりで細々と生計をたてたそうです。父は仕事のために東京美術学校出身の岡崎一の書道の先生に長期にわたって師事していました。その書道の先生の東大を出た弟が20代の若さで岡崎郵便局の局長になって赴任してきました。郵便配達の局員もベテランに赤紙が来て、どんどん出征していきました。郵便を配るのは配達の場所を暗記し、正しい配達の順序に手紙を振り分けなければならず、少し勉強と頭が必要です。せっかく新しい人を雇っても、配達に少し慣れたころ、赤紙が来てとられてしまい、郵便配達がスムーズにいかないため、局長は悩んでその兄に愚痴って相談しました。その兄が父の失業を思い出し、まあまあ頭があって、かつ結核があれば絶対に召集されないため、弟の局長に推薦してくれました。それで父は当時の逓信省に勤めることになりました。今思えばこれが私が大学に行けた最大の理由だと思います。

 

小学校

私が小学校に入ったころ、勿論給食などありませんでした。昼食時四分の一くらいの児童は弁当を持ってくることができず、また、四分の一くらいはサツマイモ一個、じゃがいも一~二個の弁当でした。私は何とかコメの弁当を持って来られる児童でした。弁当を持って来られない児童は昼食時、全員教室を出て運動場に遊びに行きました。人が食べているのに自分が食べられないから教室にいることはできなかったのだと思います。弁当を持ってこられなかった児童のことを思い出すと今でも涙が出てきます。その児童の父親の多くは戦死していなかったのです。小学校の時、女子児童の中には小さい赤ん坊の弟妹を背中に負ぶって登校している子がクラスに一人や二人いました。その赤子が授業中に泣き出すとその子は教室の外に出ていきますが、その子が歌う子守唄が聞こえると何か物悲しく大変だと思いました。

 

私は自分で言うのもなんですが成績が少しよかったためか、学級委員を始め学校行事の委員を一年生のころからよくやらされました。それで二年生の時先生に言いました。委員になって何か約束事を決めても他の委員がそれを忘れてしまい、約束を守らないのです。守らない約束しても全く意味はありません。これ以後一切のクラスの委員はやりませんと宣言しました。そしてそれ以後一切のクラスの委員を辞めると同時に私はすべての教師の「誰かわかる人。」という質問に手を挙げることを止めました。それに加えて私を指名して教師が質問しても「わかりません。」という答え以外しなくなりました。このことは非常に大事なことでした。程度の低い授業にとても付き合っていられないというのが本音でした。従ってそれ以後原則としてすべての授業で内職をして関係のない本を読むことにしました。

 

私が通った小学校は毎週1回校庭で校長先生の話を聞く朝礼がありました。朝礼の時私の隣の組の列のある生徒は一年中ランニングシャツ一枚で通学していました。一度も話したことはありませんでしたが、ある真冬の雪の降っている日の朝礼でランニングシャツ一枚の生徒は私に話しかけてきました。「今日は少し涼しいな」と。私はその精神に圧倒され、何も返事をすることができませんでした。

 

図書館と本屋

岡崎の図書館の本は戦前ほとんど全部長野県に疎開させていました。もちろん岡崎市立図書館は空襲で全焼しましたが、戦後数年でトタン屋根の安普請で再建され、疎開させていた本がそのままそっくり収蔵されました。また、岡崎には一階が普通書、二階が専門書の書店が2軒ありました。書店の名は岡崎書房と本文といいました。私は小学校の低学年から、毎日学校が終わると市立図書館に通い、多数の本を読み、図書館の閉館時間が来ると帰りにどちらかの書店によって立ち読みするのが日課でした。図書館は再建されて数年後、隣に子供専用の図書館ができ、大人用の図書館には小学生以下は入館禁止になりました。私はあわてて図書館と交渉し、子供でも大人用の普通図書館に入館ができるようにしてもらいました。

 

当時の図書館は現在の地方図書館と異なり、小説以外は専門書中心で現在のように幼児を連れた若い女性と退職後の老人相手の図書館ではなく若い勉強家か受験生中心の図書館でした。毎日図書館と本屋通いの生活は本当に楽しかったです。当時の冬の図書館の暖房は石炭ストーブでしたが、冬休みと毎日曜日に限っては朝石炭ストーブに火をつけるのは小学生の私の役目でした。小学生のころは知らないことがいっぱいで知らないことがあれば本屋と図書館でわかるまで調べることが趣味でした。当時わからないことで手間取ったのは潮の満ち引きでした。月のある方向の海が満ち潮になるのは直観的に引力で引っ張られて満ち潮になるとわかりますが、月の逆側の海も満ち潮になる理由が分からず、調べてもどこにも書いてありませんでした。この問題はニュートンもわからず、答えられなかったそうです。一年以上たって理解できる理由が書いてある本を見つけましたが、そこには月と地球は引力で引かれあっているが、地球も月も公転しているためお互いの引力と遠心力がつりあって衝突せずに公転しているのですが、公転するということは実は落下現象の一つで回りながら落ちているためいつまでも地球と月が衝突しないのです。従って、公転しているということは常に落下しているということになります。ゆえに月の方向の海は地球個体より月に近く引力が強く満ち潮になり、月と逆側の海は地球本体より遠く引力が弱いため引き潮になるというものでした。

 

スポーツは麻薬

スポーツに関してですが、私が小学生の三年生か四年生頃体育の授業でドッジボールをしました。練習試合で私の組は私一人残りましたが、その時女子児童を始め皆が声を上げて私を応援しました。そうしたら私は多少良い気分になり、これからドッジボールを始めスポーツの練習を放課後にやろうと決意しました。その夜寝るために布団に横になってから考えました。スポーツの練習を毎日したら本屋も図書館もいけなくなることに気付きました。結局私は横になりながらスポーツは麻薬だと気づきました。あくる日から体育の授業があっても決して真剣にやらず、立っているのみにすることに決心しました。もっとも決心しなくても中学一年の時結核になり、全くスポーツは不可能な身体になりました。

 

ラジオ製作とアマチュア無線

私は小学校の二~三年生からラジオと電気回路に興味を持ち、短波受信機を自分で作り始めました。短波放送とアマチュア無線を聞きたかったのです。当時岡崎市には短波受信機を売っている店、あるいはそれを作る部品を売っている店はありませんでした。あってもお金がありませんでした。そこで私は鉄屑屋に行って壊れたラジオを手に入れ、その部品で作ることにしました。壊れたラジオは鉄屑屋で一台十円で売ってもらえました。壊れたラジオから短波受信機を作るには最低ハンドドリルと半田ごてとテスターが必要です。テスターを購入するのは高価すぎて不可能でしたがハンドドリルは縄文時代の火を起こす往復回転棒をまねて作りました。これは本当にうまくいきました。半田ごては名古屋の中古屋で何とか手に入れました。テスターは高価すぎて手に入れることができないため、方向指示磁石にコイルを巻いて電池をつけ、導通のみテストできる装置を何とか作りました。それでも足りない部品もあり、名古屋の大須にある中古電気屋に行きました。米軍の放出品を含めてあらゆる電気機器、電気部品の中古を販売しており、夢の世界でした。必要な部品のあるときは必ず大須に行きました。交通費を節約のため、名古屋駅から大須まで(2~3㎞)歩いて行きましたが、其の途中にアメリカ村(シラカワハイツ、現在の白川公園)があり、そこでは夏は若い女性が極端に短いショーツをはいており、例え小学生でも私も男なのか本当に驚いたことを覚えています。小学校五年の時やっと中古のテスターを手に入れましたが、その時中古でも1500円くらいしました。現在の物価がその時より20~30倍になっていますが、今新品の安いテスターは1500~3000円くらいで売られていますから驚きです。

 

いずれにせよ私は壊れたラジオと名古屋大須の中古店を利用して短波用の受信機を作り、短波無線を楽しむことができました。このようにタダ同然の安い金額で高級受信機を作ることができました。そしてアマチュア無線の国家試験に合格し、アマチュア無線用の送信機も自作し、巨大なアンテナを作り、アマチュア無線を楽しみ始めました。これらのことは物理学と電子工学の非常に良い勉強になりました。お金がないとあるよりはるかに頭を使う必要があり、勉強なります。今思えばこれは安く物を作る研究活動でした。

 

飛行機

私は電機、電子的なもの以外にあらゆる機械に興味がありました。小学校の高学年で、私の目に入るあらゆる機械、自動車、機関車、飛行機、ジェットエンジン等、原理が分からないものはないと思っていました。小学校六年生の時、戦後初めて飛行機の所有が許され、中部日本新聞(現在の中日新聞)が取材用に飛行機を三機購入し、大府に私設の八百メートルのクレイの飛行場も建設しました。私はその飛行場に「見学したい。」と手紙を出したところ、歓迎するという返事が来たため、Nn君という友人と見学に行きました。そこには小型飛行機が三機あり、地上に止まっている飛行機の中に入れてくれ、操縦席にも座らせてくれて興奮しました。その飛行機は布張りでした。中から後ろを見ると金属パイプの骨組みが見えて布張りであることがよくわかりました。その時、飛行機の飛ぶ原理の説明を受け、ベルヌーイの定理を数学的に説明されましたが、私はベルヌーイの定理を数学的に理解しておらず、パイロットからあきれられました。私はこの時物理的、機械的なものを理解するのに原理を定性的に理解するのみではだめで、数学的、数式的に理解する必要があることを学び、以後そのように努力するようになり、非常に勉強になりました。

 

英語とカルチャーショック

中学に入って私は人生最初のカルチャーショックを受けました。私の家の隣に愛知教育大学の付属中学校がありました。そこで岡崎市立の中学校より隣にある付属中学校のほうがよいと思い付属中学校の入学試験を受け何とか合格しました。入試の倍率は2~3倍だったと思いますが、付属小学校からの受験者は原則全員合格のため、実質の倍率は4~5倍だったと思います。入学試験のうち算数の問題で1,2,3~998,999,1000の合計を求めよという問題がありました。本当かどうかわかりませんが、入学後それが正しく回答できたのは私だけだったと聞いています。これは少し自慢です。中学入学後は態度を改め、普通に先生の質問にも答えていました。ところでカルチャーショックですが、この中学校には私の入学時に初めての外国人(アメリカ人)教師を採用し、そのアメリカ人の英語のみの授業がありました。その授業ではなんとクラスの四分の一くらいの生徒か英語を話せたのです。私は全く分からず圧倒されました。私には二年上の兄と4年上の姉がおり、4年先まで兄や姉の教科書を先に読んでいて、自分の授業の時にはその内容はすべての科目で全部知っており、わからないことはありませんでした。しかし、英語だけは兄姉の教科書を見ても全く分からなかったのです。外国人先生の授業は英語の話せる2~3割の生徒と先生の間で完全に英語で行われて、私のような生徒が会話に入ることは全くできませんでした。 これは本当に我が人生最大のカルチャーショックでした。私が授業をまったくわからないなどということはそれが最初で最後でした。英語が話せる生徒は3歳くらいからか、遅くとも小学校の低学年から英会話と英語の勉強をしていたようです。

 

キリスト教会

私には塾で英語あるいは英会話を学ぶお金などありませんから、キリスト教会が無料で英語を教えてくれるというのを聞き教会に行くことにしました。その当時岡崎市にはプロテスタントの教会が二か所あり、一か所はアメリカ系、もう一か所はスウェーデン系の教会でした。両方の教会が英語の聖書研究会と英会話教室をそれぞれ週一回ずつ一回二時間無料で開いているのを聞き、両方の教会の聖書研究会と英会話教室に参加することにしました。合計週に八時間です。最初の英語での聖書研究会でとんでもない失敗をしました。やたらジーザスクライストという言葉が出てくるのでWhat is the meaning of Jesus Christ? と牧師に聞いてしまったのです。いくら中学一年生といってもこれは人生最大の恥でした。英会話教室と英語の聖書研究会の生徒はほとんどが愛知教育大学の英語専攻の女学生でした。

 

LPレコード

恥といえばもう一つ日本人としての恥がありました。それはスウェーデン系の教会の牧師の自宅で毎週行っている英会話教室の出来事です。牧師は一枚のLPレコードを聴かせました。それはバイオリン協奏曲だとは分かりましたが生徒全員誰もその曲を知りませんでした。有名なベートーベンのバイオリン協奏曲でしたがそれを誰も知らないことに牧師は驚いていました。聖書研究会ではレコードを聴かせてくれるのみならず、コーヒーも出してくれ、また、必ずクッキーが出されました。私はその時初めてクッキーを食べました。そしてそのクッキーは牧師のワイフが作ったものだということでした。西洋のワイフはクッキーなんぞをどうして作るのかと不思議に思いました。そんなもの単なるビスケットとあまり変わりないから買ってくれば良いのにと思ったのです。しかし聞いてみるとそれぞれの家庭でクッキーの味に特徴があり、いわゆるおふくろの味があるのだそうです。LPレコードの話に戻りますが、当時人口10~20万人の岡崎にLPレコードプレイヤーを誰かが一台でも持っていたかどうか疑問でしたし、当時父親の給料がせいぜい2~3万円の時、LP レコード一枚が4000円くらいしましたから今の時価に換算すれば一枚5万円くらいになるでしょう。そのうえ、その当時日本でLPレコードが売られて何年もたっていませんでしたし、誰もLPレコードを持っておらず、教育大学の学生が全員曲名を知らなくても無理もありません。いずれにしても私は毎週八時間を英語で過ごすことになりました。これを中学、高校、大学と10年間続けました。また、アメリカ系の教会が静岡県の梅が島で毎年一か月間英語のみで過ごす合宿をしていましたが、それに二度参加しました。これらの経験が、私が他の人より少しは英語ができる理由かもしれません。

 

病気とカメラ

私は中学に入ってわずか半年で肺結核になってしまいました。ストレプトマイシンの注射を半年くらい続けました。結核のため学校へは5~6割しか出席できなくなり、それが卒業まで続きました。長期に欠席したこともあり、学校の勉強は非常におろそかになりましたが、自分の好きな本は何倍も読むことができました。しかし結核のため私の中学高校生活は全く灰色なものになってしまいました。

 

私は小学校の頃、大学へ行くなどとは全く思っていませんでした。私の兄弟は私以外一人も大学に行っていません。付属中学に入り全員大学に行く予定であると聞いて大学へ行くものだと知りました。中学一年と二年は男子ばかりのクラスでしたが、三年の時全クラスとも共学となりました。裕福な家庭の生徒が多く、遠足の時皆さん高級カメラを持ってきました。ライカとかコンタックスとかのカメラです。私はカメラ好きでしたので遠足の時カメラを触らせてくれなくてもよいからファインダーをのぞかせてくれないかと頼みましたが、男子生徒にはすべて拒否されました。その時トヨタの重役の娘がおり、そのおんなのこがローライフレックスを持ってきていました。生まれて初めて女の子に話しかけました。そのローライフレックスを持たせてくれなくてもよいから、あなたが持ったままでよいからのぞかせてくれと胸ドキドキで頼みました。そうしたら驚いたことに首からベルトをはずして、どうぞと言って私にカメラを渡してくれました。私は私が住んでいる家よりはるかに高価なカメラを持って手が震えてきました。その女の子の父親はトヨタの重役からその後ダイハツの社長になった山本氏でした。

 

高等学校

私は結核のため通学のことを考えて元愛知二中である岡崎高校でなく、元市立女学校であった近くの岡崎北高に進学しました。近くの学校と行っても病気のため高校にも半分程度しか通学していません。特に体育授業は三年間一度も受けておらず、すべて見学でした。他の授業もいわゆる内職をしていて、ほとんど授業を聞いたことはありませんでした。私に対して、意地悪な先生も多くいました。どう考えても数学、物理、化学、英語は私のほうがよくわかっていたと思います。しかし、特に数学の先生は意地が悪く、私が聞いていないことを承知の上で私を指定して黒板に問題を解けと指示しました。問題が分からないのにとけるわけがありません。そうすると罰として立っておれと命令しました。私は病気のため、長く立っておれず、次第に苦しくなり苦痛の表情になりますと先生は嬉しそうに笑っていました。ただ、他の生徒のほうは笑うのではなく、そこまでやらなくても良いのにと思うのか見ている生徒も次第に苦痛の表情に変わって行きました。             

 

成績と勉強

話をもとに戻します。私の行った高校では年3回校内で模擬試験を行い、その成績順位を壁に貼り出していました。私の高校のレベルでは校内での成績は全く意味をなさず、校内の模擬試験は一度も受けませんでした。従って、自分の成績がどのレベルにあるのか知るためには、他校を含む試験の結果を見る必要がありました。幸い、西三河の高校が連合して行う西三河模擬試験があり、また、名古屋大学も公開の模擬試験を定期的に行っていました。西三河の模擬試験は西三の模擬試験と呼ばれ、、西三河地区の高校生が1000人以上受験していました。西三河の模擬試験では私は全受験生1000人のうちの7~15番くらいをウロウロしていました。名古屋大学の模擬試験では6000人が受験し、常時100番以内に入っていました。私の岡崎北高校では西三模擬試験で100番以内名古屋大学の模擬試験の100番以内の受験生は勿論私以外に一人もいませんでした。私のいた高校はその程度のレベルでした。

 

ところで数学、物理、化学はほとんど勉強しなくても入学試験でほぼ満点を取る自信がありましたが、英語、世界史、日本史は勉強しなければ何ともなりません。特に英語はたとえどんなに頭がよくてお勉強しなければどうにもなりません。将来必ず必要な時が来て、役に立つから英語の勉強はしなければ損だと思っていました。3歳あるいは6歳から英語をやっていればよいのですが3歳から英語を学んでいた人を追い越すために、まず英単語と熟語を暗記することにしました。知らない単語と熟語のカードを一万枚以上作りました。それだけでは片寄りがあるといけないと思い、当時、三省堂が発売していた単語熟語カード8000語800枚を毎日4~5時間かけて暗記するよう努力しました。毎日4~5時間かけて単語熟語カードを繰り返し見て行っても何か月かけても暗記することができませんでした。これではいつまでたってもダメかもしれないし、または、自分は異常に記憶力が乏しいのかもしれないと思っていたら、六か月を過ぎたら少しずつ分かるようになり、一年たったらほぼ完全に目的の単語熟語を暗記することはできました。次に英文法、英文解釈の本を三冊定め、20回以上繰り返し読みました。最後に英文法問題の本を10冊以上買ってきてすべての問題が解けるまで繰り返し、勉強しました。そこまでやったらほとんどの大学入試でわからない英単語熟語はなくなり、読めない英文も全くなくなりました。

 

日本史、世界史に関しても少々頭が良くてもどうにもなりません。日本史、世界史の本を一冊ずつ選んで勉強したのですがいかなる本も不完全で、なるべく良い本を選び、他の本を何冊も見て、一冊と選んだ本の足りないところを自分で本に書き加え、漏れのない本を作り、それを徹底的に何度も見て、暗記します。一冊をわずか数時間で最初から最後まで見ることにしました。それを何百回と繰り返しますと、本のすべてが頭に入ります。特に英語の勉強は母が驚いてそんなに勉強しないと名古屋大学の電子工学科が受からないのかとびっくりしていました。もっとも私が入った時の名古屋大学は定員が990人くらいでそのうち電子工学科の合格者は成績上位100番以内に全員入っていたという噂でした。

 

この凄まじい英語の受験勉強は後で電子工学あるいは医学の論文を読んだり書いたりするのに予想通り大いに役に立ちました。おかげで多くの論文を数分で斜め読みすることができ、医学の知識を増やすのに大いに役に立ちました。もちろん論文を読み、正しく理解するには語学力のみならず、広い医学的知識が必要なことは言うまでもありません。

 

 

私は大学進学においてどうせ行くなら関東の東大、東工大のような優れた大学に行きたかったのですが、経済的に困難でした。そこで、岡崎市の奨学金と岡崎市が経営する東京の大学へ行く人のための朝夕二食付きの寮への入寮試験を申請しましたが、両方とも書類選考で落ちました。それで自動的に自宅から通学できる名古屋大学に決まってしまったのです。

 

第二章    大学と磁区構造の研究

大学

最初名古屋大学工学部電子工学科を受験したのですが、応用物理学科に回されてしまいました。一応通学しましたが翌年再び電子工学科を受験し、やっと合格することができました。電子工学科に入った時、榊米一郎教授が言ったことを今でもよく覚えています。榊先生は新入生を集めて次のように話しました。今までの高校までと異なり高校でいかに勉強がよくできても頭の良さには関係ない。この中の一割はとてつもなく頭がよい。残りの九割はいくら頑張ってもその一割にかなわない。そのため九割の人は頭の良い一割を妨害したり、邪魔をするようになる事が多い。自分が残りの九割と気づいたら、一割の頭の良い人の妨害をせず、遊んで楽しむことを覚えなさいと話しました。この話は全く正しい助言で卒業後社会に出たらほとんどの人が優れた人の邪魔をしてしまうことは本当に悲しい事です。榊先生の息子さんは二人とも東大に行き、関東地方の大学の教授になりましたが、愛知県に戻ってこられ、豊田工大と豊橋技術科学大学の学長になられました。榊先生は毎週土曜日の午後ほとんど、内外の優れた研究者あるいは技術者を一日非常勤講師として呼び、講演会を開くように企画し、実行なさいました。研究者の中には学会の特別講演のため来日した世界的に高名な学者も多数いました。大学の講義の中でこの講演会ほど素晴らしいものはほかにありませんでした。研究者、技術者の研究の話を直接聞くことほど意味のあることは他にありません。多くの研究者と技術者が旅費と宿泊費と名古屋大学の非常勤講師と名乗っても良いという資格のみで講演してくれたそうです。

 

友人

 工学部には優れた人が多くいました。中でも機械工学科の石川昭治君は岡崎高校出身で極めて優れた大学生でした。岡崎高校で三年間連続トップの成績だったそうです。一般にそういう人は真の能力のない人が多いのが普通ですが、石川君は全くの天才肌で本当に頭の良い人でした。同じ岡崎出身のよしみですぐ友人になりました。彼からは本当にいろいろ影響を受けました。影響を受けたのは学問のみならず、クラシック音楽でも強い影響を受けました。私の生涯で一回だけの登山は上高地から前穂高へのものでしたが、その時のパートナーが石川くんでした。石川君は卒業後日本電装に就職しましたが、仕事は排気ガスの安全化の研究を豊田でトヨタ自動車の社員と共同でしていました。当時のガソリンには鉛が入っていて、排気ガスの毒性が今よりかなり強かったのですが、研究場所の換気が悪く、排気ガスを多量に吸ったためか重篤な血液疾患になってしまい26歳であっけなく死んでしまいました。一生の友と思っていましたから本当に悲しかったです。

 

卒研から追い出される

 四年生になり将来コンピュータの研究がしたくて、その時唯一のコンピュータ関係の講座である宇田川研究室に入りました。宇田川先生はどう考えても、優れた研究者でも優れた教育者でもありませんでしたが、たった一つ次の言葉「自分が研究しようと思う分野を三か月勉強して、その分野での知識が世界一と思えないのなら、その分野で研究するだけ無駄だ。」は正しい言葉だと思います。私はその頃自動車のトルクコンバーターの研究をしていて、宇田川研の研究テーマとして何をするか決めかねていました。トルコンの良いアイデアを思いついたのでその研究ばかりしていました。宇田川先生に突然呼び出され、宇田川研から追い出されました。宇田川研に入ってみて分かったのですが、宇田川研は世紀のハチャメチャ講座で、私たち新入学生の歓迎会はなんと宇田川教授が好きな山本富士子主演の無法松の一生:富島松五郎伝の舞台を研究室のメンバー全員で見ることでした。その費用は国税から出ている研究費が当てられていました。私は人生において、歌舞伎も行われる御園座に入ったことも実演の舞台を見たことも、バレエの公演を除いてこの一回限りです。今でしたらそれだけで辞職ものでしょう。こんな無茶苦茶な講座でしたが夏休みの終わりころに私は宇田川教授に呼び出され研究室から追い出されてしまいました。宇田川研の卒業生は代々富士通に就職する決まりだったのを私が就職を三菱電機にしたことが追い出された原因だったのは確かなようです。

 

宇田川研究室

私は大学4年になって、卒研の講座を選ぶ必要となり、名大電子工学科の唯一のコンピュータ関係の講座の宇田川研に入りました。 そこでコンピュータを学び研究しようと思っていたところ、コンピュータつまり電子計算機の実用的研究ではなく、論理数学(ブール代数)の理論ばかりの研究で本当にがっかりしました。また、宇田川先生はハチャメチャな教授で、つまり、ブール代数の数学の研究室ですから研究費は全く要らず、私たち4年生の歓迎会は国費(研究費)を使い、名古屋で唯一の歌舞伎座(御園座)での山本富士子主演の[無法松の一生(富島松五郎伝)の鑑賞でした。宇田川は山本富士子の熱狂的なファンだったからです。私は後にも先にも御園座に行ったのはこの時の一回のみです。私はその時ブール代数を研究しても仕方がないから、車のトルクコンバータに興味があり、効率よく安く軽いトルクコンバータの開発の研究に没頭していました。 それが

、物理学科mな改造させて下さいと提案したたられてしまいました、ばれたためか、夏休み中に宇田川に呼び出されて、「宇田川研から出て行け。」と宣言されてしまいました。卒研に行けなければ卒論は書けず、卒論の単位がとれません。卒論の単位は必須のため、自動的に卒業できなくなります。電子工学科の主任教授の池谷先生に再び宇田川研に入れるようにとりなしてくれるよう依頼しましたが、池谷教授は私が宇田川研から追い出されたことを確認しただけで、再び入ることはできませんでした。 

 

私の前にも宇田川研から追い出された人は6人いましたが、その全員が卒業できませんでした。 私も4年の夏になって卒業不可能が決定してしまいました。 若いという事は素晴らしく、「まあ仕方がない、来年医学部でも受験して医師にでもなれば食べて行けるだろう。」と思うと同時に、少し勉強すれば医学部合格の自信はありました。 榊研に大堀君と言う親しい友人がいましたが、彼が私に良い話を持ってきてくれました。 彼は榊研に属していましたが、榊研の大学院5年生に長谷川さんと言う先輩がいて、アメリカに留学する直前でした。 その長谷川さんが「榊研に入る気があるのなら、榊教授に榊研に入れるように話してあげよう」と大堀君経由で伝えてきました。 長谷川さんは5年前に彼の一番の同級生だった友人が宇田川研で、私と同様に追い出されてしまったそうです。 そのためその友人は卒業不可能となり、電子工学科のある建物の屋上から飛び降り自殺をしたそうで、即死だったそうです。 そのことは新聞に載ったため私も記憶していましたが、長谷川さんに相談もせず、黙って死んでしまったため、彼は友人を助けてあげられなかったことを後悔していて、私の話を聞いて、大堀君に伝えてくれたようです。 私はすぐに榊先生に話していただくようにお願いし、榊先生にお会いしました。 その時私が、「宇田川先生は恐ろしいですから榊先生に迷惑がかかるようでしたら卒業はあきらめます。」と言いますと、榊先生は「大学は研究のみするところではない。間違いなく教育機関であり君を4年間教育するのに巨額の税金がかかっている。君を卒業させて、日本の工業発展のために社会に出し、そのために使った税金のもとを取らなければならない。君は卒研教育を受ける権利があり、そんなことは心配しなくともよい。」と言ってくれました。 「君が榊研に入ることで僕が迷惑するなどという事はまったくない。大学での信用度は僕は宇田川先生よりはるかに高く、私が困ることは何もない。」との話でした、それで私は榊研に入ることになりました。 宇田川は私の卒業2年後に若くして亡くなりました。 その時、宇田川研から追い出されて卒業できなかった5人が「宇田川の死亡を祝う会」を開き、私にも招待状が来ましたが、私は卒業できたため出席しませんでした。 いずれにしても現在このような人が教授をしていれば、直ちに倫理委員会が解雇の報告があるでしょう。 それほどメチャクチャな時代でした。

 

榊研での磁区構造の研究 

 私は榊研に移ってそこのU助教授のグループに入りました。そこで研究していた名工大出身の大学院の5年生のF氏の研究を手伝うことになりました U助教授は磁石、特に磁区の研究をしていました。 磁区についてですが、磁性金属は磁気を帯びているときにおいて完全に磁化していないときはその金属の部分部分でそれぞれ磁化方向が異なっています。 そのうち同一方向に磁化している区域を磁区と呼んでいます。 この磁区を直接観察する方法が世界で少しずつ始まっていました。 当時はビッター法といって、磁石表面を鏡の如く磨いて、その上に鉄の微粒子(コロイド)を塗布すると異なる方向に磁化し、磁化の境界線(境界部分)にコロイドが集まる事を利用して間接的に磁区を観測していました。偏光した光が磁石によって偏光方向が回転するファラディー効果とカー効果を利用して、直接磁区を観測する研究もベルリン工科大学では始まっていましたが、観測の倍率が一倍と極めて低く精度の悪いものでした。 東大の先生がベルリン工科大学の装置をそのまま真似て、W光学という会社に1倍の装置を作らせ研究を始めていました。 名大のU助教授はその東大の装置を真似てY光学会社に1倍の装置を作らせました。 私にその装置を使って磁区の研究をさせようというわけです。 

 

その装置を使っての研究の前に私は論文の勉強会でドイツのフライイングとフラウワーの一倍での磁区を観測した論文を解説することになりました。 私の初めてのドイツ語論文の勉強でした。 ドイツ語はたいしたことはありませんでしたが、たった一つアイゼンケルンIsen Kern(鉄の核)だけ意味が解らず、いくら辞書で調べてもわかりませんでした。  長時間考えてIsen Kern(鉄の核)はトランスの鉄心だとわかりました。 それはよいのですが、その論文の数式が間違っていました。 勉強会でその間違いを指摘するとU助教授は「ベルリン工科大学のフライイングとフラウワーは世界で最も優れた天才的な磁石の研究者で、間違いはない。」というのです。 私は3回にわたって非常に易しく説明を繰り返したのですが、U助教授は「世界一の学者だから間違いない。」と言うので、全く驚くとともに心の底から軽蔑しました。 出席者は私の同級生を含めて私に賛同する人は誰もいませんでしたので、私は皆全員頭の悪いことに驚き非常に腹が立ちました。 それと同時に私は「観測装置を少し改良すれば、一倍でなく100~1000倍で観測でき、それは完全に世界最初で最高の研究になる。」と言ったところU助教授は論理でなく感情で「そんなことはできるはずはない。」と一笑に付しました。 いくら私が詳しく説明しても、「そんなことができるわけがなく、もしできるのなら世界中のダレデモがやっているだろう。」というので全くあきれてしまいました。 

 

その後も私は「簡単な改造させて下さい。」と提案してもU助教授は「絶対に改造してはいけない。」と言って改造を禁止しました。 話を戻しますと私は自分の研究室に戻って、F氏に「全員頭の悪い人ばかりだ。」と怒ると同時に嘆きました。 それでもF氏は黙っていました。 それから2時間くらいたった時 突然F氏が「わかった。」と大きな声で言いました。 私が「何がわかったのですか。」と聞いたところ、「フライイングとフラウワーが根本から間違っているのが分かった。」というのです。 それでも私は皆さんの頭の悪さに驚いていましたが、F氏は「こんなことがすぐわかるのは本当に驚いた。それではもしかしたら1倍の装置を改造すれば100~1000倍に見えるというのは本当か。」と言うので、「本当だ。改造させてくれないのなら装置は偏光顕微鏡と同じだから大学のどこかで偏光顕微鏡を借りられれば、それで100~1000倍に見える。」と提案したところ、「それはよい。」と賛成してくれました。調べたところ、名大工学部に少なくとも5台以上の偏光顕微鏡があることが分かり、F氏と二人で1時間でもよいから貸してくれるように四か所まで回って依頼しましたが、すべて断られました。やむを得ずF氏に明日最後の一カ所に行って、それでだめならF氏が名工大出身だから「名工大に借りに行こう。」と言ったら、F氏は「もうやめよう。頼みに行っても無駄だ。」と言いました。 私は「それでは研究を諦めるのですか。」と言ったところF氏は「一つだけ方法がある。U助教授は毎年正確に12月23日の夜に広島に帰る。そして1月7日の夜まで名古屋に戻って来ない。だから12月24日から1月7日までの間に改造して実験できないか。もし実験に失敗したら1月7日までにもとに戻せないか。」と聞いてきました。 私は「そんな事は簡単だ。」と言い、実験の準備を始めました。

 

私は日本光学(ニコン)の名古屋支店に行き、「偏光顕微鏡の対物レンズを確実に買えるかどうかわからないが金の準備ができたら12月24日に買いに来るから仕入れておいて欲しい。」と言ったら快く応じてくれました。 榊研にはその時まだ800万円(現在の5000万円以上)の研究費が残っており、F氏が榊先生に偏光顕微鏡の対物レンズの代金を出してくれるように交渉してくれました。 12月24日になって日本光学名古屋支店に行き偏光顕微鏡の対物レンズを手に入れ、その日のうちにバラックを組み立てて見えるかどうかテストしたら、結果は間違いなく大成功でした。 驚いたことにF氏は榊先生に話し、研究費800万円全部使ってよいという許可を得てきました。 それから倍率の高い偏光対物レンズを多数買うことができました。 榊先生もこの研究に興味を持ち、我々の研究を見に来て、強拡大の磁区を直接見て、「私が強拡大で磁区を見た世界で3人目か。こんなに美しく見えるものか。だから研究は止められない。」と言い、喜んでくれました。 

 

この研究は私が行なった研究のうち、最も誇るべきものだと思っています。 私はこの装置をバラックでなく恒久的なものに作り変えるため、通常の顕微鏡を3台切断し、三次元と回転、つまり合計四次元で微動できる試料台を作りました。 私が通常の顕微鏡を木工用の回転ノコギリで切断していたら、そのすさまじさが話題となり見物人が現れました。榊研の他の研究者はこの研究室でこのような世界的な研究ができるわけがないと思ったのか、皆自分の研究を中断し、「誰かが既に発表しているのではないか。」と調べ始めました。 私がF氏に「我々も論文を調べたほうがよいのではないか。」と提案したら、彼は「自分は磁区の研究を5年やっている。君ほど良い頭は無いが、過去の論文は既に全部読んでいる、だから絶対に過去に発表されていない。」と断言しました。 榊研の研究者が皆でひと月あまり調べて、最後に「あーあー、やっぱり世界最初か。自分の研究室でこのような研究がなされるとは驚いた。」と言って嘆いていました。

 

私はそれから数か月後に卒業して三菱電機に就職してしまったため、この研究の成果は研究で何もせず、することを反対し広島にいたU助教授がトップネームで発表しました。その後U助教授はこの研究で日本磁気学会から日本磁気学会賞を受賞しました。 何もやらなかったU助教授が発表し、磁気学会賞を受賞するとは皮肉なものです。 その上大学退職時U氏は磁気学会にU氏賞を創設しました。 F氏もその後名工大の教授になり、すべてを行なった私には何の利益にもなりませんでした。 しかし研究の多くはこんなもので、優れた研究はしばしば発表者が行なったものでなく部下が行なったというようなことは、ノーベル賞あるいは文化勲章級の研究でもしばしばあることです。 電子工学科の学生時このような経験があったため、私は再び研究する機会があったら、次回は絶対に他人に取られず、世界のプライオリティは自分が取ろうと思いました。 しかし、私の生涯で一番自慢できる磁区構造の研究が全く私の研究になっていないのは本当に悲しいことですし、U氏が論文に全く私の名前を入れなかったとは泥棒同然と言ったら言いすぎでしょうか。

 

名古屋大学電子工学科榊米一郎先生 

 私は大学だけで3回受験し名古屋大学工学部応用物理学科、電子工学科、名古屋大学医学部医学科に入学し、多くの先生に会いましたが、いわゆる尊敬できる先生にはめったにお目にかかれませんでした。 しかし名大工学部電子工学科の榊先生は奇跡的に尊敬すべき先生だったと思います。 私が2回目に大学に入ったのは電子工学科でした。 これは3年の時に宇田川教授が言ったことですが、電子工学科の合格者は入学試験でずば抜けて成績が良く、全学部の合格者のうち電子工学科学生全員が100番以内に入っているという話でした。 入学時、榊先生が次のようなアドバイスをしてくれました。 榊先生は「名大で最も難しい電子工学科に入学おめでとう。みなさん高校時代極めて成績が良く、エリートだったでしょう。しかし、高校でいかに成績がよく秀才と言われていても、この科に入学した人のうち1割は桁違いに有能です。残りの9割は凡人で、いくら勉強しても対抗意識を持っても太刀打ちできないのが高校とは違います。従って自分が上の1割でないという事が分かったら、優れた1割の人に追いつくことや邪魔をすることを考えずに遊ぶことを覚えてください。」とおっしゃいました。 まことに真実を衝いた優れた意見だと今でも思います。

 

 

 大学ではいろいろな授業がありましたが唯一非常に意味があり、強く記憶に残っているのは、月に一回程度土曜日に日本人の優れた研究者及び会社の技術者を呼び、午前8時半から午後1時にわたって特別講演を企画してもらえたことです。 また、外国の有名な研究者で日本の学会で特別講演を頼まれて来日した学者にも名大に来てもらい講演をしてもらったことです。 偉大な学者の優れた業績を学ぶのもよろしいですが、研究や技術開発をした本人達から考え方、苦労したこと等を直接聞くのは本当に役に立ちました。 「現在の大学がどのような授業をしているか知りませんが、今もこのような授業が行なわれていればよいのだが。」と心から思っています。

 

榊研究室

 宇田川研から追い出されたのは私が七番目でした。卒研の単位は必須ですから,卒研の単位が取れないと卒業できなくなり、私より前に追い出された皆さんは全員退学なさったそうです。私もこれで卒業できないということが分かりましたから、さっさと卒業をアキラメテ翌年医学部でも受験しようと思っておりました。ところが榊研究室に入っていた友人の大堀君が私に会いに来て、彼の指導をしている大学院の5年生の長谷川さんという先輩が榊研でよければ、榊先生に頼んで入れてもらうから、榊研に入る気があるどうか聞いて来いと言われたとのことでした。長谷川さんの無二の親友が非常に真面目な学生だったそうですが、宇田川研から追い出され、卒業できなくなったため、悲観して工学部の4階から飛び降りて自殺したんだそうです。このことは新聞に大きく乗っていましたから私もよく覚えていました。長谷川さんはそれを助けてあげられなかったことを後悔していて、せめて次回追い出された人は助けてあげようと思っていたんだそうです。もちろん私はすぐにお頼みして榊先生に会いました。「宇田川先生は恐ろしいですから、もし先生に迷惑がかかるようなら卒業は諦めます。」といいますと、先生は「大学は研究だけをするところではない。君は学生で教育を受ける権利がある。国立大学は多額の税金で成り立っている。君をここまで教育するのに多額の税金が使われた。たった一科目のために卒業できなくするなんてトンデモナイ。」と言ってくれました。「しかも君が七人目で自殺者まで出ているなどとは言語道断だ。」と言ってくれました。それで私は榊研に入ることになりました。宇田川は私の卒業後2年で死にましたが、宇田川のせいで卒業できなかった人五人はお互いに交友があり、宇田川が死んだとき、宇田川が死んだのを祝う会を開くから出席してくれと招待状が届きました。しかし、私は奇跡的に卒業できたため出席しませんでした。

 

磁区構造の研究開始

 私は無事榊研に入り、A助教授の下で研究することになりました。直接的な指導は名工大を出た大学院五年生B氏の指導で研究する予定でした。研究テーマが真空蒸着した金属薄膜の磁区構造を直接見る(ファラディー効果またはカー効果を使って観察)研究でした。磁区構造の研究の世界の第一人者であるドイツのフライングとフラウアーがファラディー効果を使った磁区構造を一倍で観測できる装置を発表していました。その装置の図面を見た途端一倍で見るとは能力のない話だと思いました。東大がそれをそっくりまねてドイツと同じ一倍の観測装置を日本の若狭光学という会社に作らせました。それをまたそっくりまねて名大のA氏が若狭光学に注文しましたが、私が榊研に入った時には製作中でまだ届いていませんでした。届くまで磁区の勉強をしました。装置が届いたのでその装置を見てみると、大幅に改造してかなり金をかければ一倍でなく世界最初に200~1000倍で磁区を見ることができることが分かりました。このように誰か他の研究者のまねをして装置を作り、研究することを縦横研究とか銅鉄研究と言って、最も軽蔑されるべき研究方法です。しかし、実際は後述の如く私が機械を大改造して、優れた研究を行うことができました。

 

私はフライングとフラウアーのドイツ語の論文を勉強して抄読会で発表しろと言われました。私は英語の論文はメチャクチャな数を読んでいましたが、ドイツ語の論文は初めてでした。ドイツ語だと辞書を引かざるを得ず、めんどくさいですが一つだけ苦労した言葉がありました。それはIsen kern鉄の核でした。意味が分からず考えましたがすぐにはわかりませんでした。長時間考えて前後の文よりトランスの鉄心だとわかりました。フライングとフラウアーの論文を見ていて重大な数式ミスがあることに気が付きました。抄読会でそのミスを指摘するとA助教授はフライング、フラウアーは世界一の研究者で間違いがあるはずないと主張しました。私は論理的に三度説明しましたが、助教授は全く解らないようでしたので、こんな頭で何故研究者になったのだろうと思いましたし、私が数学的にまた論理的に間違いを説明したにもかかわらず、それが解らない人が名古屋大学電気電子工学科にいることにもビックリしました。

 

抄読会の時、完成した装置は改造すれば200~1000倍で見えるから改造させてほしいと助教授に頼みましたら、「そんなバカなことができるわけがない。できるくらいだったらフライングとフラウアー、東大がやっているだろう。」と言われました。私は非常に驚きました。抄読会のメンバーもB氏も賛成してくれませんでした。研究室に戻ってから私はB氏に愚痴りました。「三度説明してもあんなことが解らないなんて信じられない。しかも間違っていない理由を論理的に説明するならともかく、偉い先生だから間違いないなんて小学生並みだ。」と言いましたが、B氏は黙っていました。研究室に戻って二時間ほどたった時、B氏が突然「ワカッタ」と叫びました。何が分かったのか聞いたら、論文の間違いが解ったんだそうです。それで私が普通ではないと思ったのか「磁区観測装置を200~1000倍に改造できるのは本当か」と聞いてきました。私は「本当であることは勿論、装置の光学系は偏光顕微鏡そのものです」と答えました。一般に偏光顕微鏡のレンズには普通のレンズでは使えません。 偏光が乱れないように特別に設計しなければならないからです。改造できなければ偏光顕微鏡そのものを改造することのほうが簡単です。それで、名古屋大学の工学部、理学部で偏光顕微鏡のあるところを捜したところ五か所にあることが分かりました。あくる日からB氏と二人で1~2時間でよいから偏光顕微鏡を貸してくれと交渉に回りました。貸してくれるよう四か所まで交渉に行きましたがすべて断られました。それで「最後の一か所で断られたら、B氏が名工大を出ているから名工大に借りに行こう。」と提案したところ、B氏は「もうやめよう」と言いました。「どうしてですか」と聞いたら、「恐らくどこも貸してくれるわけがない」と言いました。その代りB氏が次のような提案をしてきました。「A助教授は広島出身で毎年正確に12月23日の夜から広島に帰り、1月7日の夜まで戻ってこない。その間24日の朝から7日の夜まで改造して実験できないか?もちろん失敗した時には7日までに戻せる条件で。」と。私は「できます。」と断言しました。B氏はもっと驚くべきことを言ってくれました。「榊先生が寄付で集めた研究費がまだ800万円残っている。成功すれば全部使ってよい。」と。当時の800万円は翌年の私の初任給が22000円でしたから現在の8000万円に相当するのではないかと思います。私は年末になると手に入れにくいだろうと思い、ニコンの名古屋支店に行き「年末に偏光顕微鏡のレンズを買いたいから仕入れておいてほしい。」と頼みました。快く応じてもらえました。

 

磁区観測装置の大改良

12月23日になり、その日の夜から改造の準備を始めました。24日にニコンの名古屋支店に行き、予約していたもっとも安価な偏光顕微鏡のレンズを受け取りました。そしてバラックのバラックで応急装置を作り、強拡大で観測できることを確認し、B氏に見せました。確認できたら、次は何百倍かで見るために資料台は四次元で資料を微移動、微回転できる資料台にしなければなりません。当時各地の研究所、勿論榊研もあるものを作るにはまず設計し、設計図を機械メーカーに渡して装置を作ってもらうのが普通でした。しかしそんなことをしていたら半年以上の時間がかかってしまいます。そこで、私が手作りすることにしました。私はもともと小学生の時からそれより複雑なものを手作りしてきていました。資料台を四次元で微調整できるように改造するのが一番大変ですが、榊研はもともと電子顕微鏡開発の研究室だったので、その資料を前もって見るための多数の高級光学顕微鏡がありました。その顕微鏡をB氏の許可を得て3台もノコギリで切断して改造しました。榊研にはモーター回転ノコギリがありました。ただ回転刃は木工用のものが10枚あるのみでした。年末で店舗は閉じられているために、木工用の刃で真鍮の顕微鏡を切断することにしました。切断していたら、すぐに噂が流れ、見物人が数人やってきました。そして、木工用の刃で真鍮を切るのはやめろと言ってきました。私はそんなことはわかっている。年末で工具店が休みで金属用刃を買うことができないから仕方がない。正月明けにすぐ買ってくると言って木工用刃で切断を続けました。私は木工用の刃でも10枚あれば3つの顕微鏡を切断できると思っていました。7~8枚使って何とか切断することができました。それを他の工夫した部品とともに資料台に乗せ微動調整可能な資料台を作りました。その他の多数の部品も工夫して作ったのですが、噂が広まり、作っている最中常に2~3人の見物人がいました。ある人はその凄まじさに驚いたと言っていました。

 

私が世界で初めて200倍以上でファラディー効果を利用して磁区構造を観測したという噂が研究室全体に流れました。すると研究室全員が自分の研究を辞め、「そのような世界的な事がこの研究室で行われるわけがないどこかで報告があるに違いない。」と調べ始めました。B氏は全く調べないため、「もし過去に報告があったら大恥だと思うから調べなくてよいのですか。」と聞いたところ、B氏は「私は磁区構造を間接的なビッター法という方法で、5年間勉強してきているんだ。そんな報告が全くないことはよく知っている。」と断言しました。研究室のメンバーは1週間以上調べても報告は見つからなかったようです。あるメンバーが昼食時に「いくら探しても報告がない。あ~あ~やっぱり世界最初なのかなあ。この研究室でこんな事件が起こるとは信じられない。」と言っていました。

 

榊先生は年末年始の休み中にも研究室に来て、200倍以上の拡大磁区を直接見ました。それで「僕が高倍率で磁区構造を見た世界三番目だそうですね。こんなに良く見えるとは本当に驚いた。」といいました。そして、「これで一挙に世界最高になった。だから本当に研究はやめられない。」といったのです。A助教授はこのような事件が起こっていることは全く知らず、榊先生の後、榊研のメンバーが見せてくれと言って高倍率の磁区構造を見ましたから、1月8日に出勤してきて磁区を見たときは世界で10番目以後になっていました。A氏は改造された装置を見て「やいやい、顕微鏡を三台もノコギリで切断するとはなんということをするのだ。」と言いながら、怒るわけにもいかず苦笑していました。

 

これだけのことはすべて私の考えで私だけで行ったものですが、論文的に私の卒業論文以外は私の名前は全く論文に記載されていません。ただこのことが後の研究の発表に本当に参考になりました。二度と自分のした研究が自分がした事として記録に残らないことがないように、行なった研究は必ずプライオリティを取ろうと決意しました。さらにこの研究の最初の発表はB氏ではなく、「そんなことは不可能」と言って高倍率観測に反対し、「絶対に改造してはいけない」といったA氏が行なったのです。その後A氏はこの発表で外国に自由にいけない時代に二度もIEEEの学会に招待されました。

 

研究に対する決意

このA氏は私が宇田川研から追い出されたのだから、教官会議で宇田川を怒らせないために私の卒業を少し伸ばして三月三十一日にすることを提案すると言い出したのです。私は怒って研究を止めてしまいました。するとB氏が榊先生に言い、榊先生が尽力してくださったようで卒業延期はなくなり、例年の名古屋大学の卒業式の25日に卒業できることになりました。

 

私は榊研で随分優遇されていました。実は私が榊研に入って間もなく榊研のメンバーの六人の学部4年生を教授室に呼び出し、ある物理の定数が発見されたがその定数がどのぐらいか推定しろという質問をされました。私は遅れて入った新入りでしたから榊先生から見て一番右隅に座り、左側の人から質問され答えていきました。誰も答えられまえんでした。私は6.3前後だろうと答えました。するとその根拠を質問されました。私がその複雑な根拠を時間をかけて説明すると、この雑誌は私のポケットマネーでとっていて、日本では私しかとっていない。君が見ていないことは確かだ。それをこの短い時間で考えて答えられるとはすごい。本当にうらやましい。」と言ってもらえました。その事で信用され、私に自由に研究させてくれたのではないかと思います。

 

日本では多くの研究は外国のまねです。それは、本当に悲しいことです。独創性のない研究をするくらいなら、研究などしなければよいのにと思います。ロシアのバレエの先生が日本に来て、「日本ではバレエを好きな人がやって公演している。ロシアでは才能のある人がバレエをしている。」と言ったそうですが、まさしく日本では才能があって研究しているのではなく、好きな人と好きでもない人が研究しています。それで私は工学部の卒業アルバムの私の写真の下に私の信条を書きました。そこには「人のマネをしないこと」とあります。これは日本人の研究に対する皮肉です。

 

他人がした研究での招待

私が大学卒業後2~3年たった時のことです。名古屋大学の工学部電子工学科電気学科では二葉会という卒業生の同窓組織があり、その会が二葉会報という同窓会誌を発行していました。私にも二葉会報が送られてきました。榊研のA氏がその会報に投稿していて、それを読みましたら、「アメリカのIEEEから二度も招待された。アメリカ行きも二度目となると慣れたもので、、、、、」などと自慢たらたらの文が書かれていたのです。それを読んでさすがの私も少し頭にきました。招待されるのもすべて私の研究のお蔭です。まだ自由に外国に行けない時代のことです。なぜなら、円を持っていてもドルに換えることができず、外国から招待されてドルを送ってこなかったら外国には行けなかった時代にIEEEからドルが送られてきてアメリカに行けたのです。ただ、A氏に対する批判的な思いは私だけではありませんでした。私は医学部に再入学しましたが、教養部に通学していた頃、わざわざ私を捜して会いに来てくれた人がいました。その人が「本当に研究したのは君であってそれは榊研の全員が理解している。さぞくやしいだろう。」と言ってくれたことは唯一の救いです。A氏はその後名古屋大学の教授になり、日本磁気学会から賞を貰い、退職時には日本磁気学会にお金を寄付して若い研究者への賞としてA氏賞を作ったそうです。それを知った私は本当に複雑な気持ちでした。

 

 

KS鋼を開発して文化勲章受章の本多光太郎、元東大総長で文化勲章受章の茅誠司、文化功労者の霜田光一も鉄合金を鏡のように磨いて磁区を見ようとして、三人とも弟子も含めて観測に失敗しています。本来この磁区構造の観測は文化勲章をもらってもおかしくない研究でした。

 

第三章    三菱電機と運輸省

三菱電機入社と研修

大学を卒業し私は三菱電機に入社しました。私は一か月以上を家を離れるのは初めての経験でしたが、母が入院中のため準備が大変でした。最初の三か月は集合教育を受けることになりました。集合教育は名古屋と伊丹の二か所の製作所で行われましたが、私は伊丹に振り分けられました。全寮制で、西宮市夙川という高級住宅地のなかにある寮に入りました。旧帝大、東工大、早稲田、慶応の卒業生がほとんどで、その他の大学の卒業生はその年の新入社員の中ではごく少数でした。どの程度の能力の新入社員がいるのかが一番興味がありました。私からみれば、自然科学系特に数理系の人間は10分も話せばどの程度の人間かわかります。東工大卒の一人を除いて大した人はいないと思いました。そのため、その東工大卒業の新入社員と急速に仲良くなりました。数学的才能の極めて高い人で多くのことをその人から学びました。

 

集合教育の講義の中で強く印象に残っているものは総務課社員の怒りの講演でした。電気会社には半導体工場、テレビ工場等若い女子社員が大量に必要です。そのため人事担当社員は九州、東北、北陸地方の中学校に長期にわたって出張し、就職担当の先生に会い、女生徒を紹介してもらいます。三菱電機を含めて大手の電気会社は給料も標準並みで寮の設備もよく、多くの花嫁修業の習い事の指導もし、また、一日8時間以上労働させることは全くありません。しかし、就職指導の先生はほとんど愛知県下、大阪の繊維関係の中小企業に生徒の就職を斡旋するそうです。その理由はすべて中小企業の経営者が金(賄賂)を渡すからだそうです。しかも、その金を親か本人に渡すならともかく、すべて就職担当の先生に渡すのです。これは完全に法律違反の賄賂で、当然許せることではありません。それをすべての田舎の中学校で行なっているというのです。大会社はせいぜい自分の会社の製品(テレビ、洗濯機、冷蔵庫等)を教師に寄付するくらいで、現金の賄賂は渡せませんし、就職担当の教師は既に、電気器具は寄付されており、全く興味がありません。私は人集め担当の社員の強い怒りを聞いて、日本がそれほどひどい国だと思っていませんでしたから、驚きました。当時、毎年大阪や名古屋行きの中小企業への新入中卒者のための集団就職列車のことが新聞に載っていましたが、その陰にはこのような中小企業に就職して一日16時間働かせられて体を壊した人を多数知っています。労働三法ができて長く立っても日本のモラルもその程度のものでした。

 

三菱電機での配属

なんといっても大阪での集合教育は半導体工場、テレビ工場、真空管工場、重電工場の見学と実習が勉強になりました。入社後二か月半で配属工場が決まりました。私は何とか唯一のコンピュータ工場である鎌倉製作所に決まりました。ここまではうまく行きました。7月1日から鎌倉製作所に赴任しました。一週間たたずにそこでの配属が決まりました。私はコンピュータのソフトウェアの課に配属されることを希望していましたが、なんと工作部調整課に配属になりました。私はそれを聞いたとたんに数年で会社を止めることを決定しました。工作部に配属になった8人のうち6人は工作部調整課第一係に配属されました。一つの係に大卒の新入社員が6人も配属されたのは三菱電気始まって以来の初めてのことだったそうです。三菱電機では大卒の新入社員を囲む会というのが毎月1回7月から翌年の3月まで9回開いていました。工作部に8人も配属したのはコンピュータをいくら製作しても誤配線、誤設計で動かず、そのため営業に渡すことができず、工場は全くの赤字で工場の名目上の赤字を解消するため、8人もの新入社員を工作部に配属したようです。私は新入社員を囲む会で猛烈に抗議しました。全く決定権のないコンピュータの誤配線探し、誤設計探しの仕事を大卒にさせるべきではないと主張しました。しかも驚いたことに新しく設計したコンピュータについては設計図を見せないのです。

 

YACシステムの調整

私が新入社員を囲む会で強く発言したことの懲罰的なあてつけなのか、新入社員であるにもかかわらず、三菱電機初めての大型コンピュータであるYACシステムの調整、つまり誤設計、誤配線を見つける仕事を与えられました。そのコンピュータは郡山の国鉄の操車場のコントロールを4台の大型コンピュータで行うもので、三菱電機始まって以来のもっとも高度技術のコンピュータでした。この4台の誤設計、誤配線を見つけて調整するのですが、私は新入の高卒と組んでそのうちの1台を担当し、あとの3台には調整課のベテラン6人を1台に二人ずつ組んで行うように配属しました。それと同時に独身寮で私と同じ部屋の工作部に配属されたC君を工作部から防衛庁関係の設計の課に配属変更したのです。完全なる私に対するあてつけで、一番難しい仕事を与えれば私が逃げ出すと思ったようです。私が逃げ出したとしても4台同時に調整しているのですから、先輩が先に誤設計を見つけてしまえば調整は簡単という意図がありありでした。私としては翌年の3月医学部を受験することを決めていましたから、どんなに早くても翌年の3月までは勤めて給料をいただくつもりでした。

 

しかし、困ったことに出荷予定は翌年の3月1日で入学試験とかち合ってしまいます。

私は懲罰的にYACの仕事を与えられても全く心配していませんでした。実は大型コンピュータは三菱電機での設計は初めてでベテランの先輩でも一度も調整したことはありません。恐らく私以外は大変だろうと予想していました。仕事が始まってみると案の定設計ミスがいっぱいで、すべての設計ミスを先輩ではなく私が見つけましたが、問題は設計者を呼んでそれを説明しても理解してくれないことでした。設計ミスがあった時、スイッチを入れると一枚数万円の電子回路カードが壊れてしまいます。設計ミスを治して電源を入れてテストしても設計者に見せたとき、設計は間違っていないから配線をもとに戻せと言います。そんなことをしたら何十万円も損をしてしまうというと、どうしても戻せというから自分で戻せというと、その戻し方も知らず設計ミスを見つけるにはシンクロスコープの複雑な操作がどうしても必要なのですが、電子のエンジニアなのにろくにシンクロスコープの扱いも知らないのです。全くあきれてしまいます。ベテランの設計エンジニアが新米の工作部の職員に毎日説教されているのです。

 

少し話は飛びますが、技術部に配属になった社員は女子職員に自分の机に案内され、引き出しを引いてその中の支給された本人の名刺、筆箱、ペンと鉛筆等を見せられます。それにくらべ、工作部の新入社員は机もくれず、そのため、昼食時にはみなさん自分の机で食事するのですが、工作部の新入社員は衝立の隣の会議用の長机の回りで食事をするのです。一人の新入社員が課長に「机を下さい。」と言ったら、どうして机なんかいるんだと言われて驚いてしまいました。

 

話をYAC システムに戻しますと、私は出荷の3月1日は医学部受験のためどうしても休む必要があり、早く仕事を終えて出張に行けないことをできるだけ早く会社に伝える必要がありました。何とか11月15日までにすべての誤設計、誤配線を見つけて上司に「「3月1日は出張に行けない」と伝えました。どうして出張できないのだと聞くので「私は体が弱いのでダメだ。」という以外ありませんでした。私は「すべての誤設計は私が見つけた。ですから私がいなかったらどうせ3月1日には出荷できないでしょうから、充分すぎるほど会社に尽くした。だから、許してください。」と言いました。「3月1日以後は鎌倉で別の仕事を下さい。」と言ったら、上司はそれ以上何も言いませんでした。それ以後、私は組んでいた高卒の社員に徹底的にそのコンピュータについて私がいなくても良いように教えました。

 

設計図を見せない

毎月の新入社員を囲む会では、私が「本来新しい設計のものは誤設計は設計者本人が見つけるべきだ。」ということと「仮に本人が誤設計を見つけられなく、それを工作部がするにしても最低限設計図を見せるべきだ。」という発言をしました。それを聞いた電波部長は「そんなことは信じられない。私はそんなことをしている会社の職員であることを恥だと思う。」とまで言っていました。設計図を見せない理由を電波部長が第一計算機技術課長に聞いても黙ってしまって何も答えません。この課長はまもなく消えました。その頃だんだん私が懲罰的にYACシステムの調整をさせて、そのあまりの困難さに逃げ出すと思いきや、全誤設計を見つけたという噂が本社まで届いて、放っておくこともできなくなっていました。また、私の配属を決めた東京商大専門部出身の総務部次長も、自宅が東京で毎日会社まで30㎞を会社の金を使ってタクシーで通勤していたこととか、著書が2~3冊あり、人事労務に関する他社での講演を毎週やって自分の仕事をさぼっていることがばれて、本社の窓際に左遷されてしまいました。それでも設計図は見せませんでした。計算機技術部長も12月までに変わりましたが、やはり設計図は見せませんでした。

 

エンジニアの命

 エンジニアの生命は極めて短い。私の時代では卒業後長くて56年でエンジニアの直接の仕事は終わりです。後は係長候補生として、後進のケアと指導のみです。それにもかかわらず、人の設計したコンピュータの設計ミスと誤配線を見つける仕事をさせられるとは、腹を立てない方が異常です。「新入社員と話し合う会」の席でいつものように「設計図を見せろ。見せないのは異常だ。」と演説をぶっていたら、昔の陸軍士官学校出身の総務の係長が「ぶつぶつ言わずに男なら決まったことはやれ。」と言うのです。私は「決まったことはやれというのが殺し文句と思っているのか。それでは今すぐ私のしている誤設計、誤配線を見つける仕事を私の半分やれ、私はあなたのすべての仕事をやりましょう。私は両方の仕事をやり、あなたは誤設計、誤配線を見つける仕事を私の半分やればよい。」と言いました。そうしたら、「私はエンジニアではない。」というので、私は「誤設計、誤配線を見つけるのは私の仕事ではない。それでもしている。あなたがエンジニアかどうか問題ではない。決めておやりなさいと言っているのです。私は事務屋ではないから、あなたの総務の仕事はできないなどとは言わないし、その上、誤設計、誤配線を見つける仕事を同時にすると提案しているのです。それができないなら、偉そうなことを言わずに黙っていてください。」と言いました。すると、その陸士出身の総務の係長は「それでは運動とスポーツをしてください。そうすればすべてが楽しくなるし、女とのセックス率が上がって楽しくなる。」と言うのです。私はあきれて、「ここは仕事の話をしているのであって、あなただけ、スポーツをして、女を口説いて、セックスの回数をどうぞ増やしてください。あなたは何の話をしているのかが分からないのか。よく、それで総務の係長ができますね。三菱電機でそのようなことを言う人が総務の係長をしているとはあきれました。」と言いました。この話はあくる日には三菱電機鎌倉製作所全体に広まり、一週間後には本社にまで広まりました。私の友人で総務の東大出の同期の話では会議の後、「自分でセックスの回数を増やしなさい。」といわれたため、男泣きしていたそうです。それ以後の総務の係長は新入社員との話し合いの会で司会をする役目であるにもかかわらず欠席し、一度も出てきませんでした。

 

私は毎月の「新入社員と話し合う会」で、ただただ設計図を見せるように主張していましたが、翌年の3月になって、突然設計図を見せることに決まり、さらに工作部の社員が誤設計を見つけたら設計者の許可を得ずに勝手に設計を変えても良いことになりました。私自身も驚きました。それ以後、工作部の社員は設計ミスを見つけたら勝手にどんどん変えるようになりましたし、それ以後計算機技術課の設計者は自分で調整して自分で誤設計をみつけるようになりました。このように組織というものは全く化け物で理が通りません。

 

医学部受験と出張拒否

私は翌年医学部を受験しなければならず9月から英語、世界史、日本史だけ少し受験勉強を始めました。毎日、昼の休憩時間に高校時代に作った単語カードで勉強していたら、いつも私の横を通るたびに、私に「話し合う会で何を言っても変わらないから、君が損するだけだから止めたほうがよい。」と忠告してくれた京大を出た係長が聞いてきました。「私も外国出張も過去にあり、英語の重要さはわかっている。しかし、なかなか勉強できない。なぜ君は毎日そんなに恥ずかしげもなく単語の勉強ができるのか。」と。そのうえ「恥ずかしくないのか。」と。私は自分が頭が悪いからとか言うより仕方がありませんでした。世界史、日本史は毎日終業後、喫茶店に寄り、そこで夜10時まで勉強しました。物理、化学、国語はほとんど勉強しませんでした。それでも医学部合格は絶対的に自信がありました。ついに3月1日が近付き、私は3月1日から休みを取り、3月6日まで休みました。受験は全くよくでき、数学満点、物理満点、化学満点、英語は少なくとも95%、国語も70~80%くらいできたから確実に合格だと思いました。試験の最後の日3月五日の午前、数学の試験が終わり帰ろうとしたら、私を含め数人が呼ばれ残るように言われました。驚きましたが、なんと面接があるとのことでした。別のところへ案内され、面接を待ちましが、待っているのは年寄りと病人ばかりでした。いよいよ面接が始まり、最初の質問が「良い年齢をしていったい何のために受験したのだ。医学部など難しいから受かるわけがないだろう。」と。「だいたい君の年齢で問題ができるわけがないだろう」とも言われました。私が「よくできた。恐らく合計では少なくとも9割以上できたから一番で合格するのではないか。」と言ったところ面接の先生は驚いて、「そんなことを言った老人は12年間面接をしているが初めてだ。」とのことでした。「いったいどうしてできたのだ。」と聞くから、「物理満点、化学満点数学満点、英語95点、世界史日本史95点、国語も75~85点くらいとれたからそれで受からないはずはない。」と言ったら驚いていました。実際入学後大卒の老人の入学者は私一人でした。

 

受験の時、私の休暇は三日しか残っておらず、試験は3月3日からですが、3月1日からの出張を拒否したのに出勤するわけにもいかず、3月1日から6日まで休みました。そのため、診断書が必要で母が長く通院している開業医のところに仮病を使ってかかり、診断書を書いていただきました。合格発表は当時新聞に載りました。私の出身校の岡崎北高は名大の医学部に合格する高校でないため、その先生はすぐ私が仮病でかかったと気が付き、その後母が診察を受けたときに、「医学部進学は大賛成だ。電子を卒業して就職しても、言っては悪いが医師のほうが色々な道があり、よほど良い。」母が、「その年齢で食べていけるだろうか。」と聞いたら、医師ほど何歳でもクイッパグレがない職業は他にない。」と言ってくれたので、両親とも安心したようです。 

 

医学部受験後の出勤

3月7日(月)に出勤してからが大変でした。朝、出勤して私が机から立って課長のところに歩いていくと私の課全体のみならず隣の、またその隣の課まで異常にシーンとしてしまいました。課長のところに行って「何か仕事を下さい。」と言っても課長は全く無視でした。1日目私は机のところでじっとしていただけでした。寮に帰ってくるとすべての人にうわさが流れており、寮の食堂で食事をしていると、高卒の人が前に座って「働かない人は大きな口をあけて食べるな。」と言いますから、私が「なるべく小さな口で食べます。」と答え、また、「なんで辞めずに会社に来るんだ。」とも言われ、私は「お金が欲しいから。」と答えました。それから寮の食事の時には、毎日のように高卒の人がいじめに来ました。あくる日から朝また私が立って課長の方に歩いていくとガヤガヤがまたシーンとなりました。課長に「何か仕事を下さい。」と言っても全くの無視でした。その日は会社でも高卒の人が何人もからかいに来まして、なぜ出張を拒否して飯を食うのかとか何故辞めないのかという非難ばかりでした。私が驚くというより、周りの同僚が驚いていました。後で言われたことですが、「何故あんな侮辱に耐えられるのかわからない。自分だったら1分も耐えられない。」というのが皆の意見でした。

 

私は医学部受験が終わっており、合格は100%自信がありました。親とは医学部に行くについて、「家には無料で泊めてやる。食事は無料で食べさせてやる。お金はアルバイトで稼げ。どうにもお金が足りないときは金を貸してやる。」との約束を取り付けてありました。しかし、私が侮辱された時の態度で同僚たちは私が普通より少し変わっているということ、とてつもなく強い精神のも持ち主と誤解しました。私としては医学部に入ったら教養課程は3度目で2年のところを1年半でとれる自信があり、どんなに早くても10月までは勤められると思っていました。

 

受験後の臨時の仕事

3日目の朝、私が課長のところに行って「何か仕事を下さい。」というと少し顔が動いて反応があったような気がしました。4日目の朝、立って課長のところに行くとき、周りはシーンでなく、少し会話が出てくるとともに「何か仕事を下さい。」と言ったら頭を振って「ノー」の合図をしました。やがて、朝私がたってもシーンは少しずつなくなり、課長も「無い。」と返事をしてくれるようになりました。私が出張を拒否して20日以上過ぎ、3月の末には子会社の新入社員が入社してきました。コンピュータを販売したらコンピュータの販売先はコンピュータの扱いが難しくて客だけで使用困難なため、中型以上のコンピュータには操作用、修理用の人質をつけます。この人質用に子会社の新入社員を教育することが必要でした。3月末のある日いつものように「仕事を下さい。」と課長のところに言って行ったら、やっと「人質用の子会社の新入社員にコンピュータを教える仕事をやれ。」とのことでした。

 

私が出張拒否のような態度をとれたのは、当時私はコンピュータに対しての能力に絶対的な自信を持っていたからです。どうしてかというと三菱最初の大型コンピュータの誤設計、誤配線を見つける仕事を新入社員なのに配属されすぐに、先輩6人を差し置いて設計図なしで私がすべての誤設計を見つけてしまいました。設計者は当然メモリだけ、論理回路だけ、ラインプリンターのコントローラーだけ、カードパンチのコントローラーだけと全員部分的にしか仕事をしていません。しかし、私は調整の仕事ですべてのコンピュータ回路の誤設計、誤配線を見つけなければならなかったのです。また、テストのためソフトウェアも完全に理解する必要があったのです。

 

コンピュータの本の執筆

三菱電機製だけではなく、他社から購入している東芝、富士通のマグテープ、日立製のラインプリンター、外国製のカードリーダー等の内部まで理解しないと仕事はできません。その知識が無いから先輩でも誤設計を見つけられなかったのでしょう。他社は知りませんが、三菱電機には新入社員用か、あるいは初めてコンピュータの仕事をする人のための解説書は全くありませんでした。。コンピュータと言うものの原理は市販の本を読んでも全く理解できるものではありません。にもかかわらず、全くコンピュータの設計の基本原理を示す資料がないのには驚きました。自分が苦労して知ったことをわざわざ人に教える人は誰もいないのです。日本人の後輩への配慮の低さにはあきれるばかりです。したがって良い機会ですから子会社の新入社員を黒板で講義すると同時に「ダレデモワカルコンピューター」というコンピュータの説明書を青焼き用の半透明の用紙に書き、現在と違って青焼きコピーして配りました。そうしたら、上司が子会社の新入社員だけでなく、他の従業員にもコピーして渡せと言いました。すると、先輩の多くがコンピュータはこんなことになっていたのかと感心していました。書いた私がビックリしました。中には「俺には分からないところがある。」という人もいました。そこで続編として「サルでもわかるコンピュータ」を書いて大変な好評を得ました。

 

この人質用の子会社の新入社員に大阪府立大学の電気工学科卒の人がいました。私の大学受験の時、国立大学には一期校、二期校と2回しか受ける機会はありませんん。多くの公立大学も国立と同じ時期に入学試験を行っていましたが、大阪府立大学は別の日に入学試験を行いました。そのため、私も行く気は全くありませんが、模擬試験のつもりで大阪府立大学の工学部の電気工学科の入学試験を友人達と受けに行きました。345倍の高倍率でしたが、勿論合格しました。私以外は全員落ちました。その大阪府立大学の電気工学科卒の人が、三菱電機の子会社にコンピュータの人質要因として入社してきたのです。大阪府の税金を使って教育した人をこのような仕事に就けるのは間違っています。私のように三菱電機に入っても、設計の仕事ではありませんでしたが、これだけ文句をつけてやっとソフトウエア仕事に就けたのですが、人質ではどうにもなりません。三菱電機に採用された高校卒が高度のコンピュータを設計しており、三菱電機からその子会社かで運命が全く変わってしまい、三菱電機に入っても配属で全く変わってしまいます。これは根本的に間違っています。

 

新しい仕事

コンピュータは他の機械と根本的に異なるところがあります。普通機械は壊れたら壊れたということが分かります。全く動作しなければ壊れたということが分かりますが、時に計算ミスをするような壊れ方はユーザーに大変な迷惑をかけます。たとえば、給与計算は当然コンピュータが使われますが、正しく入力しても、機械が間違えればただではすみません。正しい給料より高い給料に間違えてもいけませんし、ましてや少ない給料はもっといけません。私が始めるまでアメリカ製のコンピュータテストプログラムを使用していましたが、テストプログラムで誤りがないと判断されていても時々間違えるのです。三菱電機、三菱重工、三菱商事共同でレンタルしたIBMの世界最大のコンピュータでも時々それが起きますが、テストプログラムにかけて、誤りが出ていなければ、IBMの職員は「間違っていない。」というだけです。IBMほどの権威があればそのような強気のごまかしが効きますが、普通のお客さんが三菱電機に対してそれで済むはずはありません。

 

それで信頼のおけるテストプログラムあるいは自己診断プログラムを作る必要に迫られました。ところがその仕事をするためには完璧なソフトとハードの知識が必要です。作る必要があるということはわかっても誰が作るのかということが問題です。当然第一計算機技術課が本来作るべきだと思いますが、計算機技術課は分業でメモリのみ、演算回路のみ、入出力機械のコントローラーのみの知識で、全体を理解する人は誰もいません。それでやむを得ず、技術部はその仕事を工作部に押し付けました。それは非常に難しい仕事ですが、どうしても新しく作らなければなりません。一応工作部調整課には外国製テストプログラムの担当者が二人いました。しかし、「もし新しく作るのならあと4人くらいはいる」との結論でした。若い人の方が進歩が速いだろうと私の同期の人を課長が一人ずつ呼んで「自己診断プログラム作成をしないか。」と聞くと呼ばれた全員が「そんな厄介な仕事は今さらできない。」と断りました。その後かなり間をおいて課長はイヤイヤ私を呼び、その仕事をしないかと聞きました。私が喜んでしますというと、「そんな嬉しそうな顔をするな」と言いました。私は二人のアメリカ製テストプログラムの担当の先輩と一緒に仕事をすることになりました。それで自己診断プログラムの作成が始まりました。メインメモリが一番重要で不安定と思われていました。最初に私はメインメモリ用の新しいテストプログラムを作ることになりました。当時はメインメモリは直径2mm位のドーナツ状の磁石を鋼線を通してマトリックス状に並べたものを使っていました。メモリの理論を学ぶため、神田の本屋に行き、英語のメモリの本があったので買いました。アメリカの偉い先生がどのような記憶パターンがメモリの最悪パターンかが書いていました。それを読むと彼の理論では最悪パターンは私が考えたものより、たった四分の一しか書かれていません。工作部で使用していたアメリカ製のテストプログラムもその四分の一しかしていませんでした。つまり最悪理論が間違っていたということです。三菱電機には相模製作所という工場があり、そこの工場でメモリを作り、他社にも出荷していました。メモリを問題にした会議の時、相模製作所の東大理学部を出た三十歳代のエンジニアはSoさんと言いましたが、自信を持ってメモリには問題がないと言いました。にもかかわらず、私が作った新しいプログラムではエラー続出、アメリカ製のテストプログラムはすいすい通り、曽我さんは「私のテストプログラムが間違っているからだ。」と主張しました。コンピュータはハード的に速度が変えられます。速度を落としてテストプログラムをかければエラーは出ないから、私が「同じプログラムで速度の速い時だけエラーが出るなどというミスがあるはずがない。」と主張しても聞き入れてくれませんでした。やむを得ず私が今までのメモリの最悪理論が、私が見つけた正しい完全理論の四分の一しかしておらず、本当はメモリの最悪理論はアメリカの理論の四倍あると言い、その説明をすると彼は理解できないようでした。そのような議論の時は、私とSoさんだけの話になって、他の人は何を言っているのかわからないようでいた。水掛け論をしていても仕方がないので他の話になって30分くらいたったころ、Soさんが突然「わかった。」と大声を出しました。何がわかったんですかと聞いたら、「今までのメモリの最悪理論が四分の一しか無いということ。」というのです。「君はそんなことがすぐわかったのか」と聞くので、「すぐわかりました。」というと、彼は「どうして世界中がそんなことが分からなかったのか。」と私に本当にビックリしていました。天才Soさんより私の方が解っているみたいと会議に出席していた周りの人たちにわかり、それからは鎌倉製作所での私への信頼は絶対的なものになりました。工作部調整課のテストプログラム担当の先輩二人は私の作ったプログラムを見て、自分らが作っても意味がないとプログラムを作る仕事から逃げ出して、私の作ったプログラムでコンピュータをテストする仕事に変わりました。

 

私はそれから多数の全く新しい理論のテストプログラムを作りました。先ほど書いたようにマグテープ、ラインプリンター、カードリーダー、カードパンチ等は東芝、日立、富士通等の製品を購入していましたが、私が作ったテストプログラムでテストすると、日立、東芝、富士通ほどの会社の製品も不完全で、エラー続出でした。それを伝えると「そんな事はあり得ない。」と各社すべてがいうため、どこのユーザーで何の問題もなく使われているのかユーザーを教えてくれと言ったところ、開発エンジニアが三菱電機に直接やって来て多数のエラーが出るのを見ました。それで「どのようなテストをしているのか。」聞いてくるので少し話したら、「そんなテストは全くしていない。だから客先でエラーが出るんだ。」と納得しました。日立、東芝、富士通も最初はアメリカの会社とコンピュータを技術導入していて、そのテストプログラムをそのまま使っているのみでした。結局、東芝、日立、富士通は共同して私のテストプログラム技術を導入したいと言ってきました。見返りはお金でも各社の三菱が欲しい技術でも良いということになり、どの技術を導入するかは今でなくても将来でもよいという契約になりました。私は各社にすべての資料を渡すと同時に、新しくテストプログラムのシステムの説明書を書き直して渡しました。それとともに各メーカーの担当者に来てもらって説明と講演をしました。その中には完全乱数発生のプログラムや、自分で自分をテストしながら学習して進化していく完全な現在のAIディープラーニング方式のテストプログラムも含まれていました。この様に私は日本のコンピュータの実用化にかなり重要な貢献をしたと自負しています。

 

自己診断プログラムとAIディープラーニング

私が開発した自己診断プログラムのうち世界最初で最も自慢できるものがマグテープの自己診断プログラムです。これは間違いなく世界最初のAI方式のプログラムでした。私は当時の極めて重要な記憶装置であるマグテープ装置の新しいテストプログラムを作っておりました。マグテープでは各社とも最もトラブルが多く、メーカーの悩みの種でした。そのため、三菱ではいろいろなメーカーのマグテープを購入して客先に出荷しましたが、どのメーカーの装置もトラブル続出です。もちろん自己診断プログラムでは最悪と考えられるデータを考えてテストするのですが、それでも客先でエラーが出ます。それで、私はコンピュータで乱数を発生させてテストすることにしました。乱数をデータとしてテストしたら、予想通りエラー続出でした。ところが、マグテープ装置のコントローラーの設計をしている第一計算機技術課から文句が出ました。それは「コンピュータは所詮プログラムに従って動作するもので、純粋の乱数など発生できるわけがない。」と主張し、「万が一乱数ができたとして、テストしても乱数ならば同じデータでテストできないため再現性がなく意味が無い。」と言いました。私は「多数の客先でいかなるデータを使うか全くわからず、それはいわゆる乱数といえる。従って乱数のテストは意味がある。」と反論しました。技術部の連中は、「完全な乱数は先ほども述べたように計算機ではできない。」とさらに反論してきました。私は「本当に乱数である。コンピュータには水晶振動子の発信機がついています。かつ日本の交流電源は50ヘルツか60ヘルツです。その水晶振動子と電力会社の交流の周波数は全く何の連絡もありません。すべての振動には必ずゆらぎがあります。そのゆらぎの差は完全な乱数になります。このデータでテストすれば、完全な乱数によるテストとなります。」と述べたら、本当に驚いていました。さらに、この乱数のデータからエラーが出たパターンを調べ、それに似たエラーが出そうなパターンを予想してテストするようなプログラムを作りました。これはいわゆる現在AIと言われるソフトの方式で、私は恐らく世界最初に、1966年つまり53年前にAIディープラーニング方式を取り入れていました。これは私が勝手に作った作り話ではありません。当時はソフトウェアに特許制度がありませんでしたから特許になっていませんし、論文で発表すれば、世界中がまねをして盗まれてしまうので発表もしていません。ただ、この価値を認めて日本の東芝、日立、富士通等がこの技術を買いに来たということから読者も信用してくれると思います。私は世界最大のIBMモデル360及びCDCのコンピュータのプログラムも知っていますが、テストプログラムに関しては私のものよりははるかに遅れたものでした。「私の研究成果」といえるものは四つあり、第一はは前述のように、世界最初の強拡大の磁区の観測であり、第二にこのAI方式のプログラムですが、この二つは私の名前で発表することはできませんでした。第三は後述の経食道の超音波断層、第四も後述の経胃壁の超音波断層です。第三、第四はやっと私の名前で発表することができました。

 

人間の心理

コンピュータは理解するのが非常に困難です。もちろんソフトの話です。一般の人がコンピュータのハードを理解する必要はほとんどありませんが、コンピュータのソフトは完全に理解する必要があります。そのため、メーカーは販売するコンピュータの基礎的な説明、使用方法、ソフトの解説書をつけて販売します。解説書はプログラム学習方式と言って理解しやすく書いたものを用意します。あるとき、三菱油化のコンピュータが故障しました。人質だけで修理できず、給与計算が迫っていたため、油化の職員は怒り、早急に修理するように圧力をかけました。そのため三菱電機鎌倉製作所の職員が三人出張し、修理することになりました。三人の中に私も入っていました。修理は三人の精鋭が行ったのですから、すぐ直りました。ところが、そこの若い職員が各種のコンピュータの説明書が無いため、いくら払っても良いから、何とか説明書が手に入らないかと言うのです。前年コンピュータを販売した時、説明書は50冊以上送り、職員は1015人程度しかいませんから、充分説明書は足りるはずです。ところがコンピュータ導入時の職員がすべての説明書を確保してしまい、翌年入ってきた職員には絶対に見せないのです。つまり、見せれば理解し、自分が優位に立てないからです。私は勿論すべての資料を無料で送ることを約束しました。人間は自分が有利になるためには資料隠しはもっとも初歩的な方法です。読者は資料を隠す方ではないとよいのですが、まさか隠す方ですか。

 

男とスポーツ観戦

三菱電機の独身寮の休憩室で私は毎日食後新聞を読むのが習慣でした。新聞は三紙とられていました。一紙はスポーツ紙でした。新聞を読む人にはスポーツ紙を先に読む人と一般紙を先に読む人がいました。残念ながらスポーツ紙を先に読む人は技術者として劣る人が多かったと思います。ある夜休憩室で新聞を読んでいると突然多数の男たちが入ってきて休憩室が満員になりました。何が起こったのだろうと不思議でしたがまもなくテレビでボクシングの試合が始まりました。しばらくたって突然大騒ぎになり、大の男たちが大興奮でした。テレビを見ると選手が倒れていました。男というものは殴り合いが大好きで相手が殴り倒されると見物の男たちは異常に興奮するものだと初めてわかりました。私に言わせれば、これは石器時代に強い男が狩が得意で狩が上手な人についていけば食べ物にありつけることから、強い男を見ると異常に興奮するのだろうと分析しました。現在のようにライフル、拳銃、ナイフのある時代に肉体的に強いも弱いもないだろうと思うのですが、ボクシングを見て興奮している本人たちはなんと思っているのでしょうか。そうでない人から軽蔑されるとは思わないのでしょうか。

 

マクスウェルの電磁気学方程式

休憩室と言えば、新聞を読んでいるとき隣の部屋のD氏が入ってきました。休憩室には大卒ばかり10人ほどいました。その中でD氏は大きな声で「自分は電気の基本であるマクスウェルの電磁気学方程式が何を意味するのか分からない。誰か知っていたらおしえてくれ。」と言いました。それを聞いた人たちは東大、京大、東工大等の電気電子工学科卒の人ばかりでしたが、一人消え、二人消え、すぐに私とD氏のみになりました。そして、D氏は私に向かって「マクスウェル方程式の意味を数学的に説明できるのならおしえてくれ。」と言いました。私は「あなたが満足いくかどうかわからないけれどある程度は説明できる。」と答えました。マクスウェルは1864年日本の江戸時代の末期にファラディーの実験に基づき四つの有名な方程式を作りました。これは驚くべき業績です。日本のチョンマゲ時代に現在も相対論、量子力学にも大きく矛盾せず残っている理論ですが、普通の理論では数式をみれば、直観的に何を意味するか我々にはわかりますが、マクスウェルの方程式は何を意味するか、恥ずかしながら私も数秒ではわからず、完全にわかるのに数分はかかりました。しかし私の大学の電子電気のクラスの多分5~10%の学生は十数時間かければその式が何を意味するか数学的理解ができたと思いますが、実際に理解を試みたかどうかはわかりません。多分、残りの90%はわからないでしょう。

 

東北大学出身のD氏が言うのには「学生時代に頭のよさそうな学生に教えを乞うたが、全く意味がわからなかったし、また、説明した方もわかっていないようだ。それで電磁気学担当の講座に行って大学院の学生、助手、助教授まで質問したそうですが、確かな説明は得られなかった。」と言いました。マクスウェルの電磁気学方程式は4つの式から成り立っており、ベクトルの微分積分、つまりrot.ローテーションdiv.ダイバージェンスなどというあまり見たことのない記号が入っており、また4つの式が総合的に示す意味を知る必要があるため数理的に理解することが少し困難です。マクスウェルの方程式の数学的に正しく理解できないことと、方程式を使った演習問題を解くこととは異なります。理解していなくとも数式を計算し演習問題を解くことはできます。まあ、この式は物理系の学生の最初に見る少しだけ難しい理論ですがよく考えればたいしたことはありません。量子力学はこれよりはるかに難しいです。もともとマクスウェルの方程式のように一人の天才でできた理論でなく、量子力学は多数の学者が協力してできた理論ですから、全体像を数学的につかむのが困難です。量子力学の講義は名古屋大学の電子工学科では京大理学部を出て神戸工業に就職し、その後名古屋大学の教授になったE氏が受け持っていました。神戸工業時代、後にノーベル賞を受賞した江崎玲於奈の同僚だったそうです。私は熱心に講義を聞いたつもりでしたがさっぱりわからず、結局何冊かの本を買って時間をかけ、考えながら読み、数学的にはやっと分かった程度でした。量子力学がかなりわかって来て、E先生自身が量子力学をわかっていないと思いました。量子力学は単位を取った後も多数の本を買って学び、中程度まで理解できたと思っていますが、しかし、わかったかどうかは演習問題が解けるかどうかで少しは判定できますが、実際に解いてみると量子力学のひねった問題を出されると解けない問題がありました。したがって完全に理解しているかどうかは疑問です。

 

D氏との話に戻りますが、私はその場で手帳と鉛筆を取り出し、マクスウェルの方程式は暗記していましたから書き出し、説明しました。彼は初めて納得のいく説明が得られ、マクスウェルの天才性が分かったと喜んでくれました。それからD氏と友人になりました。

 

物理特に電磁気学はわかりにくいため、私が工学部の学生だった頃ある学生がY教授に質問しました。「基礎的電磁気学ですらどの本も全く同じことが書いてあってわかりにくい。英語の本も同じだと思いますが。」と。Y 教授は東大卒でしたが以下のように答えました。「学生時代に友達と共同ですべての英語、独語の本を調べてみたら、すべて2種類の本にたどり着き、皆、日本語の本もそれと同じことしか書いていない。良い本を見つけようと思っても無駄だ。」と言いました。どの著者も皆誤りを書くことを恐れて、わかるように書か無いのだそうです。また、天才は式だけ見ればよく、わかりやすい本は必要ありません。わかりやすい本を希望する私は天才には程遠いようです。

 

コンピュータの講義と応接室

三菱電機の鎌倉製作所の話に戻ります。鎌倉製作所で一番のお客さんは防衛庁でした。民間用のコンピュータ、レーダー部門は赤字で、何とか防衛庁の受注で収支を保っていました。どういうわけか、防衛庁の職員に1~2か月の予定でコンピュータの講義をすることになり、私がその責任者になりました。一番偉い人は空将なのか陸将なのか忘れましたが将軍でした。それで将軍はじめ十数名の自衛隊員が一か月以上に渡り、鎌倉製作所に来ることになったのです。休憩時には応接室が必要でした。鎌倉製作所には20近い応接室がありましたが、上司と相談したら、将軍には最も広い応接室が必要とのことでした。それで応接室担当の総務の係長に会いに行きました。係長は女性でした。講義の3か月前です。その女性の係長に大きな応接室の予約はあっさり断られました。三菱電機の客の接待は応接室のランクで決まります。すなわち昼食の内容、お菓子、コーヒーの質はすべて応接室のランクで決まります。そして調べると将軍は最大の応接室をとって部下を交代で毎日2~3人呼ぶと同時に週に1~2度は講師も入れて食事をするのが望ましいとの話でした。私は本当に困って最上の応接室を予約するよう課長に頼みました。課長が担当係長に頼んでも断られました。部長にも頼み断られました。最後に副所長経由で頼みましたが、それでも断られました。さすがに重役の所長には頼みませんでした。私は部長と課長にどうすればよいですか、何とかしてくださいと言いましたが、久永君どうしようもないだろうと言い、私はなんと無責任なのだと思いました。全く入社以来こんなに困ったことはありません。講師については私が勝手に選べば、皆それに従うように命令されていました。講師と講義の内容も決まり、応接室だけ確保できず、私はあせりました。

 

工作部に私と同期の慶応大学出身のT氏がいました。T氏は工作部に配属になっても文句ひとつ言わず働いていました。彼は格好よくまたテニスの名人でした。鎌倉製作所は広く、何面かテニスコートがあり、T氏がテニス部長をしていました。T氏を目指して多くの女性テニス部員がいました。ダンスも名人で彼は入社一年目に男性の料金が一万三千円(現在に換算すると約十三万円)のダンスパーティーを開いたくらいです。私と全く異なるため、私は少し彼に批判的でした。ただ、独身寮の寮長もやり、世話好きだというところだけは感心していました。ある日突然彼が私のところにやって来て、「自分はわからないことは人に聞くことにしている。現在、わからないことがあると一番わかっていそうな人に聞いてもほとんどわからない。久永に聞くとよくわかることは聞いていたが、お前が自分に批判的な事はわかっていたから聞けなかった。今、お前は応接室が取れなくて困っているそうだが、担当者はテニス部員だ。俺が言えばとれるかもしれない。その代り何かわからないことがあったら教えてくれ。」と言いました。私は喜んでその提案に応じました。その後T氏のお蔭で最高の応接室を確保でき、講義も無事終了することができました。

 

このT氏は1995年初飛行した日米共同開発のF2戦闘機に世界で初めて三菱電機が開発したフェイズドアレイレーダーの搭載を提案しました。このレーダーは多数の飛行機を同時に追跡できる能力を持っています。それ以後開発された世界の戦闘機は全てフェイズドアレイレーダーを搭載するようになりました。

 

若者が倒れる

私がテストプログラムを製作し始めて一年以上たった頃、ある日帰りが遅くなり、午後10時ころになり、やっと夕食に間に合いました。食事をしていると高卒グループの会話が聞こえてきました。F君が倒れてこの四日間寝たきりで何も食べていないとのことで「あいつもうだめだすぐ死ぬだろう。」と話していました。Fくんは背が高く、いかにも健康そうで、いわゆるたたいても死なないタイプの若者でした。私は驚いてすぐ彼の部屋に行きました。彼は生きていましたが、立ち上がることはできませんでした。まず、水が飲みたいというので少し飲ませ、何か食べるか聞いたら頷きました。その時彼はトイレに行ける状態ではなく排泄物が垂れ流しの状況でした。体を拭いて着替えさせました。私の部屋にヒーターと小さな鍋がありました。このような時には母がおかゆを作ってくれましたが、作ろうにもコメがありませんでした。それで、寮生の朝夕食を作っている料理人一家が一階に三部屋を借りてすんでいました。夜11時過ぎで迷惑だと思いましたが、起きてもらい、米を貸してくれと頼んだら、何に使うのだと聞くので事情を話しました。おかゆを作ったことはあるのかと聞くから「無い。」と答えたら、親切にも「それじゃあ私が作りましょう」と言ってくれました。そのお粥を寝ている彼を横向きにして少しずつ食べさせました。だいぶ元気が出てきましが、すごい熱をだしていました。近くの薬局まで歩いて行ったら、明かりがついているので激しくノックして開けてもらいました。解熱用坐剤と風邪薬を購入し、それを飲ませました。彼は泣いていました。あくる日総務の同期の友人に話したら、「それは大変だ。寮で死んで、いつ死んだかわからないこがあり、親が怒ってきた例がある。」のだそうです。出勤してから会社で「何故同室の人が助けないのか。」と話したら、「工業高校出が高度の設計をさせられている。皆死にもの狂いで無い頭を使って仕事をしていて同僚を助ける余裕はない。」のだそうです。彼は若く3日間で元気になり、私の部屋に出入りするようになりました。命の恩人だと言われ、よく肉体労働があると、会社でも寮でも手伝ってくれました。

 

司法試験の勉強

医学部に通学することになれば、安定した収入がなくなるため、会社を辞めても何か収入がある方法はないかと思い、司法試験を受けて合格すれば司法修習生という制度があり、これは国から収入が保証されているため、司法試験受験のための法律の勉強を始めました。毎日午後5時から午後10時まで5時間、土日は10時間以上の勉強を六か月間続けました。私のことですから数年で合格すると思いましたが、勉強すればするほど、法律の仕事が意味がないと思うようになりました。サイエンスに比し、あまりにも不愉快な勉強です。法律などというものは人間に悪い奴がいなければ必要ありません。それで司法試験を一度も受けず、六か月で勉強を止めました。本当に続けなくてよかったと思っています。このような司法試験の勉強をする人はよほど不幸な人か、不幸でなくとも幸せではない人でしょう。もっとも、司法試験の合格者は科学的な仕事に向いた人ではないでしょうから、その意味はわからないかもしれません。

 

インチセンチの換算表

同期の中に早稲田大学の機械を出て工作部の工程課に配属になった人がいました。工作部に配属になっても大喜びで、何の文句も言いませんでした。G君と言いました。彼が朝出勤したら、アメリカ製誘導弾ホークの国産化をすることになり、アメリカの設計図がインチで書いてありますが三菱の工作機械はcmが基準になっているため、精密なインチ―cm換算表を作らなければならないことになったそうです。彼の一年後に入社した機械化出身の男が担当になりましたが、三菱製の大型コンピュータでは不可能だとわかり、三菱電機、三菱重工、三菱商事の共同でレンタルしている世界最大のコンピュータであるIBMモデル360でないと作れないと言っているそうです。それで私に三菱コンピュータで何とかならないかと質問してきました。私はその場で5分でプログラムを作り、動作しているコンピュータが2~3台あったのですぐにコンピュータにかけ6ケタの換算表を作って渡しました。その日のうちに事件が起きました。G君が自分の課に戻ってすぐに「できました。」と係長に報告すると、「後輩が半年かかってできないのに5分でできるわけがない。半年前から頼んでいたのだろう。」と言ったそうです。「何の企みがあってそんなことをしたのだ。」と猛烈に怒ったそうです。

 

彼は「先輩として面倒を見ろと言われても機械科出身で工程課に勤めている自分がコンピュータソフトに詳しいわけがない。もともと集合教育で、会社で困ったことがあったら同期で助け合えと言われ、そのために三か月も集合教育をするのだと教えられたため、同期で最もソフトに詳しい久永に相談するのは当たり前だ。」と反論しても「そんな嘘を言って、半年前から作ってもらったんだろう。」と繰り返し怒鳴っている。「だから私に一緒に来て反論してくれ。」と言いました。その係長はノートリアスな人で、「争いになったら向こうは東大を出ているので適当に謝った方が良いのではないか。」と言いました。さらに私はあんな人と関わったら下手をしたら会社を辞めなければならないですと。」と言いました。彼は「絶対にそんなことにならない。課長も部長も異常ではないし、例えこの私が辞めても僕のおじいさんは合併前の八十二銀行の創立者で久永さんと違って八十二銀行ならいつでも、また、取引の中企業ならいつでも入れるし、第一一生食べていける株の配当があるから、そんなことは心配するな。」と言われました。私は彼と同じ工作部のため、お互い負け組と思って深く付き合ってきたのですが、そんな金持ちとは夢にも思わず、今までの失礼をわびました。

 

私の係のH君は私が換算表作っている時を見ており、使ったコンピュータの担当だったため、「証人として一緒に説明に行く。」と言ってくれました。私とG君、H君が工程課の係長のところに行き、「本当に今日の朝聞いてつくたんだ。」と証人まで連れてきて説明しても聞く耳を持たず、烈火のごとく私にも怒り最悪の状況になりました。私はそれ以上議論しても無駄だと思い、G君に「いつでも証人になるから必要な時は呼んでくれ。」と言って自分の係に戻りました。それからG君から連絡はありませんでした。数日間G君と係長の争いは続きましたが、突然係長が出勤しなくなり争いは終了しました。

 

東大出のプログラマー

私の同期で東大の電気を出て、ロガーという大型船舶用のコンピュータのプログラムを担当していたエンジニアがいました。彼は囲碁の名人でいつも特定の人を相手にして囲碁をしているか、一人で囲碁の本を読んでいました。その彼が私に相談に来ました。「ロガーのコンピュータが自分のプログラムで動作しないが設計者は設計を間違っていないと言って、この二か月仕事が進んでいない。」というのです。設計図を見せてもらいました。「自分の考えではこのあたりがあやしい。」と設計図のある部分を指さしました。そこまでわかったらあとは簡単です。その指差すあたりを10~20分見るとすぐ、誤設計を見つけることができました。私が勝手に配線を変更し、プログラムをテストしたらうまくいきました。「純粋のプログラムエンジニアである君がどうしてそのあたりのハードが怪しいとわかったのか。」と聞いたら、「仕事が進まないから設計図を見て、かつエラーの出方と比較して必死に考えた。」と言っていました。しかし、ソフトとハードは根本的に異なるため、彼の才能には本当に驚きました。東大出身者には頭の良い人がいます。

 

大型ディスクメモリー装置開発の失敗

三菱電機はアメリカ製の超大型磁気ディスク装置を輸入して販売することになりました。三菱のコンピュータの客相手では高価過ぎて売れませんでしたが、メーカー他社には販売できました。大型ディスクメモリはまだ国産されておらず、三菱電機で国産化することになりました。その会議には私も出席しましたが、技術部の早稲田出身のエンジニアが担当することになりました。私は本当にうらやましいなあと思いました。会議の途中で同僚からそんな悲しそうな顔をするなと言われました。今は決定権のある自己診断プログラムを作っているのだから満足だろうというのです。私はソフトだけでなくハードの設計もしたいと言いました。その早稲田出身の設計者が本当にうらやましかったのです。

 

アメリカ製の輸入ハードディスクの保守担当のH氏が本社に長期出張になりましたが、私は調整担当の職員と異なり、かなりの時間机のところにいました。私の机の比較的近くにある大型の部品倉庫に大型ディスク装置開発担当の技術部職員が毎日出入りしているのに気づきました。不思議に思い、部品倉庫を見てみると大型磁気ディスクの予備の磁気ヘッド(当時1本何万円、現在では何十万円)が一本もありません。これがないと客先で壊れたら直せません。すぐH 氏に電話したら、すぐに本社から戻り、私にものすごく怒りました。「何故もっと早く知らせなかったのか。」と。係長が「彼が悪いわけではない。むしろ彼が不信に思い調べてくれたからわかったんだ。」と言ってくれました。磁気ディスク開発担当の早稲田出身のエンジニアが自分の開発のため輸入した20本を皆壊してしまったので、客用つまり保守用の部品に手を出して全部の磁気ヘッドを壊してしまったのです。一本の価格が現在の価格で50万円としたらほぼ2000万円分を壊してしまったことになります。彼に文句を言っても「必要だったからで何が悪い。」とふて腐れていました。私には何故こういった異常な人が今まで生きてこられたのか理解できません。その人もすぐ技術部から消えました。彼のせいでディスク装置の国産化は中止となりました。

 

関西弁とエンジニア

三菱電機のトラブルの対策会議で京都大学の大学院を出た人の設計ミスを若いエンジニアが指摘した時、その返事が「ソヤカテ ワカランワ。」という関西弁でした。設計ミスを指摘した若いエンジニアは怒って、「お前なんか出て行け。」と言いました。驚いたことに周りの上司も「そこまで言わなくても。」といって、若いエンジニアの発言を止めることはしませんでした。今TVの放送で、数十年前より関西弁が多くなっています。これは非常に危険です。一般に言語は人格を表すと言われています。昔、中野好夫と言う人が新しくシェークスピアの「ベニスの商人」を翻訳した時、主人公は標準語で悪人シャイロックは関西弁で翻訳しました。好評でした。逆にシャイロックが標準語で主人公アントニオとポーシャが関西弁だったらと想像してみてください。関西弁と言うのがどういうものかよく理解できるでしょう。このように関西弁を使って、何も自分をより低く、より悪人に見せることはないと思います。関西出身の人は自分の一生にかかわる問題としてもっと訓練をして関西弁を使わないようにすべきだと思います。関西弁が直らずに英語がまともに話せるのでしょうか。また、ある若くてノーベル賞を受賞した医師が自分の職場では完全な関西弁を話し、TVに登場するときは標準語ですが、それでも私は気になります。私の三菱電機の経験からいえば、方言の中でも関西弁と、関西弁を話していなくても関西弁のイントネーションがでていると特に嫌われるようです。親は自分の子供の事を考えて、子供の言語に充分注意すべきだと思います。

 

計測器の破壊

次は私の仕事には無関係です。キンテルというアメリカ製の超精密電圧計がありました。当時一台約100万円以上する計測器ですが、それが鎌倉製作所には二台ありました。その二台ともを名工大を出た新入社員が壊してしまいました。会社は困ってしまいましたが、輸入業者には在庫はありませんでした。しかし仕事に支障が出るため、輸入会社が納入している他社の中で三台保有している工場から一台借りてきてくれたそうです。その新入社員もすぐいなくなりました。

 

同期の大卒の自殺と発狂

三菱電機が私と同期で採用したのは大卒で333人でした。そのうち35人が鎌倉製作所に配属になりました。その中で自殺者、発狂者が出ました。入社して一年近くは技術部には仕事はなく勉強させられています。一年近く立ったら仕事が始まります。技術部の計算機関係に配属になったI 君は入社後一年で自殺しました。行方不明になったため、同期のものがひと月あまり探しました。私は一週間で自殺に決まっていると言いました。同期のみな怒って私を非難しました。六か月後鎌倉の建長寺の雑木林の中で首つりとして発見されました。長文の遺書があり、鉛筆で書いてあったため、六か月たっても読めたそうです。その中に数人の人がいじめたと名を挙げて書かれていたそうです。東大を出た総務のJ君がその遺書を読んだというので、私は同期ではあっても自殺者と話したことはありませんから、まさか書かれていることはないと思いますが心配になって自分の名前が書いてあるか確認しました。書いてなかったとのことで安心しました。その後ある筋から遺書に書いてあった人のうち一人が解りました。C大学を卒業した人でした。頭の程度は低いのに本当に偉そうな人でした。

 

発狂者に関しては少し複雑です。東大経済学部を出た前述のJ君は工作部のL君と寮の同室のため私とも親しかったのですが、彼が総務所属のためか、給与計算のコンピュータ化を命令されました。それでJ君はただちに私に相談しましだ。私は「私が具体的に教えても良いが、そんな事より三菱電機名古屋製作所は3年前から鎌倉と同じコンピュータで給与計算をやっている。名古屋の担当者に電話で連絡しておくから、自分で1~2か月出張して直接教えてもらって来い。」と言いました。同じ会社ですから給与体系も同じでしょうし、絶対に失敗はないだろうと助言しました。J君は早速名古屋に連絡し出張中の名古屋での入寮も手配してもらいました。私大を出た同期のM君はコンピュータによる在庫管理を命ぜられました。私は彼と話したこともなく、彼は勉強のための出張もしませんでした。もちろん開発の期間は一年以上もあったのでしょうから努力すれば何とかなってもおかしくありません。しかし、うまく行かず発狂してしまいました。私は深夜に寮長のN氏から呼び出されましたM君は4階建ての寮の屋上で飛び降りると騒いでいました。それを取り押さえて自室に戻し、寮長はA氏と私で明朝両親が迎えに来るまで見張っていてくれと言いました。私は名古屋が在庫管理をコンピュータでやっていることを知っていました。それにもかかわらず、M君の名古屋出張をすすめませんでした。何故なら、彼が在庫管理のシステムの作成をオーダーされたなどとは全く知らなかったからです。知っていれば何とか助けてあげることができたのにと残念に思っていますし、本来それは命令した上司がアドバイスすべきだと思います。よくない上司につくと不幸です。

 

高校の先生

私も三菱電機に入社して三年目になり、既に医学部は合格し、休学手続きを取っておりました。恥ずかしながら会社を辞めて医学部に行けば給料ゼロになります。それが怖くて会社を辞めて医学部に行く、最終決断がなかなか尽きませんでした。それで、先輩のH氏に仕方がないから高校の先生にでもなるかと言ったところ、彼の工作部品質管理課の友人に話したようです。するとその友人が私に話があるから終業後コーヒーを付き合えと言ってきました。彼は慶応の博士課程一年まで行ってから就職し、工作部品質管理課に配属になったそうです。彼はコーヒーを飲みながらこう言いました。「確かに君なら簡単に高校の先生になれるだろうが、友人で会社を辞めて先生になったのがいるが、その人の話ではこのような時代の最先端の仕事をして高校の先生になると、給料は入って来ても時代に完全に取り残されているようで絶望的になると言っていたから、お止めなさい。」とアドバイスしてくれました。

 

退社後の元の会社への訪問

私が入社した年に、茨城大学を出て工作部に配属され数年たって辞め、東北電力にコネで入った人がいました。その人は先輩H氏と同期でしたが、三菱電機を辞めてから一年以内に二度も会社に遊びに来ました。私が一度辞めたところに何故二度も遊びに来るのだろうと周りに尋ねると「辞めた人は人生転げ落ちてしまうが、自分はそうではないことを自慢するために来るのだ。」と言っていました。

 

国家公務員キャリア試験

その当時、日本は転職は非常に不利でした。新卒で入社した場合を正規入社といい、新卒ではなく途中で入社した場合は業歴と言って、明らかな差別がなされていました。できれば給料のもらえない医学部ではなく、差別のない再就職ができないかと考えました。再就職で差別のない唯一の方法が国家公務員試験合格でした。それで、私は卒後2年以上たっていましたが国家公務員上級試験甲種(一種)を受験しました。いわゆるキャリア試験です。私は電子通信で受験しました。20倍近い倍率だったと思います。作文試験、一般常識試験は全専攻共通でした。面接は日本語と英語の2回ありました。英語の面接は試験官は二人で、彼らが面接した中では最も英語がうまいと褒められました。教会の英会話と英語聖書研究会に10年通った成果かもしれません。私は謙遜して「そんなことはないでしょう。今の若い人は発音も良いし。」というと、試験官は「みなさん私が質問することに答えるのではなく、自分の好きな英語で話している。君は私が質問した内容に沿って答えを考えて話している。外国人と交渉するのに自分が話したいことを話しても仕方がない。相手が納得する英語を話す人はほとんどいない。」と言っていました。

 

私は好成績で合格し、運輸省に本省採用となり、国会議事堂の前の合同庁舎四号館運輸省(現在の国土交通省)航空局技術部無線課に配属されました。その時「退職後は全日空の重役か運が悪くても東京モノレールの社長に天下らせてやる。」と言われました。入省したら課長補佐官の案内で最初挨拶回りから始め、ただただ挨拶回りでした。挨拶ごとに辞令を開いて見せ、終わるとたたみました。それを繰り返していたら、折目が切れてばらばらになってきてしまいました。こんなに挨拶しなければいけないのかと聞いたら、「いけない。」と。事務次官にも挨拶に行きましたが、一番緊張したのは官房長への挨拶の時です。挨拶の後、案内の課長補佐官に「私が東大卒でなくてすみません。紹介し甲斐が無いでしょう。」と言ったら、なんと「あれでものすごく機嫌が良かったんだ。君が大学を聞かれた時名古屋だと言ったら、広々として豊田講堂はすごいねと言っただろう。機嫌がよくなければあんなことは言わない。君が私大だったら一言も口を利かなかっただろう。」と言われました。恐ろしい世界です。東京会館でニューキャリアーの歓迎会を開いてくれました。その時は中曽根運輸大臣に紹介され、言葉をかけられると同時に大臣の前でショートスピーチをさせられました。私がそのような俗っぽいことをしたとは自分でも信じられません。それからオリンピック村にあった青少年センターで900人近い新人キャリアー全員での集合教育合宿を受けました。合宿では約一か月間講義と集団討論と国の色々な施設の見学がありましたが、集団討論では皆さん自信過剰で口が立つのみで中身のない人ばかりで、これという人は見当たりませんでした。

 

当時は外務公務員上級試験もあり、その人たちも一緒に集合教育を受けましたが、集団討論の際彼らは「まず、イギリスで数年パーティー等の習慣を身に着け、その後、パリに行って磨きをかける。」などと言い、わたしから見ればなんとなく芸の世界の人間のように見え、日本の将来が心配になりました。改定する日米航空交渉は外務省がすると思っていたら、外務省の新人に聞いたら、全部運輸省が行なうのだそうで、そんな専門的な知識のあるのは外務省には一人もいないという話でした。集団教育の中で国会とか、首相官邸(以前の建物)とか、皇居とかを見学させられました。いろいろ見学させられた中で一番印象に残っているのは総理府統計局だったと思います。学校の体育館2~3個分の大きな部屋の中にオバサンが1000人程勤務していて、手回しの計算機で何かを計算していました。「これはなんだと思うか。」と質問されました。「第二次大戦で日本人は三百万人以上死んだが、男が250万人死んだら、250万人の女が男にありつけない。これは戦争の遺産だ。」と言いました。彼女らが退職したら、コンピュータを導入して統計を取る予定だと言い、今導入しないのは彼女らの仕事がなくなるからだと説明されました。

 

運輸省の仕事

集合教育が終わり運輸省に戻って最初に言われたことは、世界各国の飛行場等の無線設備の変更に異論がないかとの外務省経由の問い合わせに英語で返事をすることでした。最初はインドのある地方の無線設備を廃止したいが日本は異論があるかの問い合わせでした。当時日本では日本航空しか関係していないので、まず日本航空に問い合わせて異論がなければ異論なしの返事を先輩の英語の返事を参考にして英語で書き、外務省経由で返事をしてもらう仕事でした。

 

次はICAOの仕事でした。ICAOとはInternational Civil Aviation Organizationの略で国際民間航空機構とでもいうのでしょうか。アメリカは世界の飛行場をその設備に従って一、ニ、三級とかABC級とかに分けているのですが、毎年ただカナダとだけ名目上の相談を するのみで各級の設備基準を変えて通告してきます。日本への定期便のある飛行場でそのアメリカの提案で飛行場のランクが変わるところを調べ、変わる飛行場があったらどの設備を更新すれば元のランクにとどまれ、もし設備更新するとしたら金がいくらかかるのかメーカーに問い合わせて書類を作って上司に提出することでした。少し面倒ですが短期間でやり書類を作ると同時に上司に説明しました。

 

それが終わったら飛行場の無線設備を勉強しろと言われました。飛行場の設備としてはGCAILS、タカン、グライドパス等ですが、私はすでに完全に知っていました。勉強しろと言われても困りますが、二週間くらい勉強したふりをしていました。その後、「勉強は終わったので何か仕事がないか。」と聞きました。上司は驚いて「そんな短時間にわかるはずがない。」と言い、「どうして勉強が終わったというのか。」と質問されました。「私はもともと高校時代から興味があってすべて知っていました。しかもどう改良すればよいかというようなことをいつも考えていた。」と答えました。信じられなかったのか上司が二人で質問してきました。私はすべてに答えたため、上司たちは自分たちより私の方がはるかに詳しいことを理解してくれました。そんなことは小学生から無線のプロでしたから当然のことです。

 

何月かはよく覚えていませんが入省して半年位たち上司に呼ばれて、来年FAAアメリカ航空局の航空機および飛行場の無線関係の世界のレベルを上げるため、世界の関係者を集め、長期の講習会が開かれるから日本を代表して行って下さいと言われました。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアを含めて世界中の職員が集まり、かつテストもあるから外国人に負けないように頑張れるよう英語もしっかり勉強しておくように言われました。

 

 

これは冗談ではありませんが、私は航空機のアメリカの安全対策に極めて批判的で、軽蔑しており、FAAは全く頭のよくない連中ばかりだと思っており、私は具体的な安全向上のアイデアは全く無限というほど持っていました。アメリカのFAAに文句を言い新しいことを提案して世界の航空安全に貢献しろというならいくらでも頑張りますが、FAAの危険な態度は何ともなりません。しかも私は本物の技術屋で世界最初の自己診断プログラムを多数作り、コンピュータの世界最初の技術開発をしてきました。それがFAAごときに教えてもらうなんてトンデモナイ。もう私は世界最初の高度なことをやるか、つまらないことをして、ぶらぶらして全日空の重役にでもなろうと思っていただけですから全く予定が狂いました。本当に良くするのなら一部でも私に決定権がなければ何もできませんそれで一年で辞めることにしました。辞めるとき官房長に挨拶に行き、アメリカ人にこんなくだらないことを教えてもらう気が全くない事、安全を増すなら、安くてアメリカの提案より良いことが無限にあること、しかもアメリカだけで他の白人国も全く無視しているからどうしようもないと伝えました。官房長は理解して、本当はそういう人にいてほしいと言っていました。

 

第四章    医学部進学

医学部進学

三菱電機を辞め、運輸省を辞め、私は自動的に休学していた医学部に行くことになりました。大学に戻って本当に良かったと思いました。大学は腐った鯛だと思います。有難いことに大学には図書館があり、専門雑誌も三菱電機、運輸省に比べ桁違いにあります。全く有難いことです。本と専門雑誌さえあればこれほど幸せなことはありません。問題は収入問題です。日本育英会の奨学金は相談に行きましたが、二度目の大学進学では申請資格がないそうです。

 

大学に戻ってすぐある人が接近してきました。彼は中卒で大検に通って名大医学部に初めて入学したO君でした。年齢も同じでした。彼は顔が広く、非常に好条件の家庭教師のアルバイト先を見つけてきてくれました。覚王山の高級住宅街の姉弟を教える仕事でした。それだけではまだお金が不足ですので、各種学校でコンピュータを教えるか、予備校の講師をやろうと思いました。

 

医学部の授業と言っても、御存じのように最初2年は教養で、工学部で既に終わっている単位です。当時は大学が2回目でかつ同じ大学であっても前の単位は全く認められずに同じ授業を繰り返し受けなければなりませんでした。私が医学部卒業後大阪大学医学部の入学試験での史上最大の不正事件が発覚しました。入試問題は普通大蔵省造幣局で刷っていたのですが、大阪大学は入学試験問題を刑務所で刷っていたのです。それが持ち出され、

医学部受験生を集めて答えを教え、不正入学者を毎年10人近く出しました。それが6年以上繰り返されていたのでした。もちろん不正入学者はただちに退学になりましたが、卒業して医師になった人は不問だったようです。不正を長期間やっていたため、現在他大学に在学中でも不正入学者がいたために本来は合格点で不合格になった人は、希望すれば大阪大学医学部に編入できることになりました。その人たちは他大学での単位を初めて認めることになりました。これをきっかけに旧帝大どうしでは大学が2回目の時は教養での単位を認めることになりました。私も5~6年あとの再入学でしたら医学部を4年で卒業できたのに残念です。

 

体育の授業

大学の教養の授業には体育もあります。私は年齢が上で肉体的に強い方ではないので、体育の授業にはまいりました。最初の体育の授業で剣道がありました。私は剣道などというものはテレビ以外に見たことはありませんでした。今でもよく覚えているのですが、初めて面と防具をつけ、横山君と向かい合いました。私は竹刀をチョンチョンとたたき合うだけだと思っていましたら、最初から面の上をたたかれました。私は過去にそのような経験をしたことなどなくびっくりして、竹刀を肩にかついで逃げ出しました。そうしたら驚いたことに横山君は私をおいかけまわしたのです。他の全員大笑いで、私はこんなに笑われた経験もありませんでした。それで、普通クラスの体育授業は無理ということになり、体調を考慮したクラスに入ることになりました。そのクラスは遊びのようでパターのゴルフをしたりして、走ることもなく無事体育の授業を終えることができました。体育の単位を2年の後期にもう一単位とろうとしました。しかし、後期にはそのような体調を考えたクラスはなく、そのような男子は女子の体育クラスに入ってやることになっていました。この女子の体育クラスもふざけていました。トランポリンなどで遊んでいるだけで、先生も女子と遊んで楽しそうでした。そこでたまたま知り合ったのが現在のワイフです。

 

アルバイト

役所勤務から学生に戻り、比較的年齢の高い二浪のMo君と三浪のMt君と友達になりました。経済的に生活を安定させるために、まず塾の講師をねらい、三浪のMt君と名古屋最大の予備校の河合塾に講師の採用試験を受けに行きました。驚いたことにMt君は合格しましたが、私は落ちました。面接した人に私と同じ三流高岡崎北高出身者がいました。何の科目が教えられるのかの質問に対し、英語、数学、物理、化学、世界史、日本史と答えたら、そんなことはありえないと言われました。その質問は岡崎北高出身者でしたから余計よくなかったのでしょう。私は本当のことを正直に言っただけなのですが。それで困ってコンピュータのソフト及びハードの先生が良いと思い、まず名古屋最大の電子電機の各種学校のコンピュータ部門の講師の仕事を受験しました。受験してから知らされたことですが、京都大学の助教授が講師をしているが、その人は大変忙しく、予定外で講義をさぼるのだそうです。それで、毎週2回必ず出校し、助教授が突然休んだ時のみ代理で講義をしてくれということでした。ただし助教授が休んで本当に私が講義した時のみペイされるという条件でした。私は一か月半にわたり、なんと10回以上その学校に行きましたが、その助教授は一回も休まず、全く収入になりませんでした。助教授とは一度あって2030分話しましたが、コンピュータのことは全く分からない程度の低い人でした。バカらしくなり、一銭にもなりませんでしたが辞めました。

 

次に、名古屋駅前に日本電子計算学院という各種学校があり、そこに飛び込みで講師採用の打診に行きました。私の履歴書と45分の質問ですぐにコンピュータの概論とソフトのフォートランを来週から教えてくれとの話になりました。ペイは1回午後6時~9時までの3時間で一万二千円とかなり高額でした。家庭教師が週2回で一か月8000円でしたから、その合計の収入で医学部の6年間何とかなると思いました。最初の私の講義では事務長が聞いていました。私は三菱電機で防衛庁の職員や、子会社の社員、現場の職長、班長にコンピュータのソフトやハードを何度も講義したことがあり、本当に簡単で、いかなる質問にも答える自信がありました。講義が終わってから事務長が本物のエンジニアに初めて会った。今までの先生は全くお素人のようだと褒めてくれました。ただ、それから週23回場合によっては日曜日に午前、午後と23時間ずつの講義があり、本当に忙しくなりました。収入も運輸省、三菱電機時の4~5倍、時には10倍になるときもあり、貯金もどんどん増え、経済的には非常に安定しました。

 

異常に親切なY

医学部在学中一番の問題は情報不足です。工学部の電子工学科と異なり、頭さえよければ試験に通るわけではありません。従って、各先生が過去にテストでどんな問題を出したか、どのようにレポートを書けばよいのかを知る必要があります。私の年齢の学生はクラスには一人もいませんし、誰も何の情報お教えてくれません。例えば県立旭ヶ丘高校では毎年医学部に10人以上合格し、その高校出身者はあらゆる情報を持っていました。大学に入って間もなく、Y君という一人の学生が常に私に働きかけてきて、いろいろ医学部の習慣を教えてくれて助かりました。あまりに親切なので聞いてみました。するとY君の父は高校の先生で年齢の離れた私と同年の兄がいて名大医学部を出ているのだそうです。その兄は工学部電子工学科に行きたかったにもかかわらず、その父が医学部を薦めて、けんかになってしまいました。それで電子工学科を2度受けて、それでも受からなかったら医学部に行くということで折り合いました。その結果は名古屋大学工学部電子工学科を2度受験し不合格となり、やむを得ず3回目に医学部を受験したという話でした。その兄に電子工学科卒の学生がいると言ったら、それはとんでもなく頭が良い人だから、一人で困っているだろうから医学部の習慣を教えてやれと言われたという話でした。まことに私は運がよく、できた人に出会えました。私は金銭的に余裕ができたため、新しい高価なステレオを買い何枚ものクラシック音楽のレコードを買い、楽しみました。ベートーベンのバイオリン協奏曲は37枚、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲は35枚その当時日本で販売されていたもの全部を購入してきました。

 

母親の付き添い

基礎医学の授業に組織学と病理学という科目があります。両方とも何百枚もの人間の標本のスライドを顕微鏡で見て覚えなければなりません。毎日授業終了後、一台ずつ与えられた顕微鏡でスライドを見て覚えていくのです。組織学は人体の正常の標本、病理学は病気の標本です。工学部でも製図の宿題が出れば毎日遅くまで自分の製図台で夜までかかって描く人が多いですが、工学部と異なり、医学部では変わった景色が見られびっくりしました。毎日組織のスライドを勉強していると多くの学生の母親が来るのです。そして隣に座ってスライドを変えるごとに母親が新しいスライドを手渡しし、済んだスライドをもとに戻す手伝いをしています。もちろんすべての学生ではありませんが、例え一部の学生にしても大学生になって、しかも三年以後で20歳を過ぎているのに親が付き添うなんて信じられませんでした。しかも食事も用意してきています。私などは食事パン一つで我慢してしまいますが、母親が豪華な弁当を作ってきて学生と一緒に食べていました。私がうらやましそうに見ているとあくる日から私の弁当まで作って来てくれた親がいました。それで学生の中に私のような年寄りがいることが知れ渡りました。

 

私の縁談

学生は皆、親にとって大事な息子さんで縁談を持ち出すには若すぎます。そこで唯一の年寄りの私に親たちがたくさんの縁談話を持ってきて、私に見合い写真を見せようとするのです。私は三菱電機時代、東大でのKs君、東北大でのKm君の部屋によく遊びに行きましたが、時々見合い写真が送られてきていて、それを見て、「すごい美人だ。すぐ結婚するといい。」と薦めていました。そのため、「久永は誰でも美人と言う。」と言って軽蔑されました。それに反し、私にはまったく縁談などはなく、三菱時代に一度も親のところにすら見合い写真が送られてきたことはありませんでした。医学部に入ってから見合い写真を見せられることが多くなり、その多くの女性が医師の娘で、そこそこ美人でした。しかも、私の卒業まで、また卒業後も何年にもわたり経済的に援助するという話ばかりで、同じ人間なのに医師はやたらもてるのだとわかりました。中には私の家に見合い写真を送って来るものもあり、電話もかかってきました。私の母に「久永様のお坊ちゃまのお母様でいらっしゃいますか。」と言われ、母が「お前が久永様のお坊ちゃまだそうだ。」と大笑いでした。しかし、写真を送ってこられたら、そのたびになにがしかの岡崎名物を持って写真を返すのが大変でした。

 

生化学の単位

医学部の勉強で一番大変だったのは生化学でした。これは三年生(学部一年生)の時の授業ですが、六年生の4月で合格者は104名中わずか22名でした。私も落ちている82名の学生の一人でした。六年生の5月に試験があるのですが、どうしてもその時に合格する必要がありました。年二学期制で六年の後期は10月から臨床試験が始まります。落第した科目の試験は一期に一回しか受験できません。学生は多くの場合グループを組んで勉強しているのですが、私も前年に前記のY君(兄が電子工学科を受験した)のグループに拝み倒して入れてもらいました。教材として大学でのノートのコピーが必要ですが、その代金もコピーも私がするということまで提案しました。Y君が推薦してくれてそのグループに入れてもらうことができました。私を含め5人のグループです。驚いたことに、既に合格している勉強家のAd君もオブザーバーとして入っていました。そして週2~3回精力的に共同学習しました。そこへ豊橋出身のZ君が入会を申し込んできました。老人の久永を入れたくらいだから自分も入れて当然だと言ったそうです。私以外、全員反対しました。皆私に「久永君は甘すぎる。絶対入れるのはダメだ。秘密が守れない。」と言うのです。私は完璧にノートを取った人から絶対にほかの人には貸さないノートを年寄りだから貸してくれと口説き落として借りていました。その時の条件はグループ以外の人には絶対に見せない。一学年下の学生にも見せない。他の学生から助けてくれと泣き落とされてもグループ以外には見せないことを約束し、コピーしてグループ全員に渡しました。グループは大喜びでした。みなさん他のグループには渡さず、約束は守ってくれました。従って大事な約束を果たすことができました。ところがZ君は絶対に約束は守れないうそつきだとの理由で全員が反対したのでした。精力的に勉強し、5月初めの試験が終わりました。発表の日、教務課の前は何十人の人だかりができました。受けた人も、すでに受かっている人も集まっていました。午後一時に発表の予定が一時半になっても発表されません。発表は翌日の午後一時に延期されたのでした。

 

発表が延期された理由が分かりました。学部長が教務に電話して合格者の人数を聞いたところ十七名だったとのことです。十七名の合格ではすでに合格した者も合わせても三十九名だけで、このままでは大量の留年者がでてしまう予測になります。大量の留年者が出ると国立大学ですから、文部省から文句がでます。文部省に言わせれば、大量の留年者が出るのは入学試験が悪く、能力不足の人を入学させたか、入学後の大学での教育が悪いかのどちらかだと言って改善命令が出てしまいます。それで学部長は生化学の教授に電話して、「もう一度試験の答案を見直してくれ、人間だから見間違いがあることもあるだろうし、60点以上が合格だが、60点以上かどうか迷う例もあるだろうから60点をとれるかどうか迷う例があったらよく解釈して合格させてくれ。」と言ってくれました。あくる日の発表は合格者が十名増えて二十七名でした。私のグループ5人は全員合格しました。グループは直ちに臨床試験グループに変更して大変な臨床試験の共同勉強を始めました。

 

我々のグループ入りを断ったZ君は落ちました。Z君はこの影響で他の勉強ができなかったためか翌年の国家試験にも落ちていました。Zくんは生化学の試験に落ち、それが気に入らなかったためか、生化学の教授室を訪ね、「久永が受かって自分が落ちたことはありえない。自分と久永の答案を見直してくれ。」と言ったそうです。教授室には教授がポケットマネーで雇った若い女性秘書がいて、一応職員ですから大学のサークルにも入ることができるのです。教授室にいてその話を聞いていた彼女は同じサークルの私の同級生にその顛末を話しました。彼女はようするに学生のスパイだったのです。教授は答案を取り出し、私の合格もZ君の不合格も間違いないと言い、そして「自分が合格しないのはおかしいからと抗議してきた学生は過去にもいたが、他人が合格したのはおかしいと言ってきたのは初めてだ。」と言って、びっくりしていたそうです。それを聞いたY君はZ君を殴ってしまいました。

 

医学部図書館と英語雑誌

大学には図書館があります。名古屋大学はたいした大学ではありませんが、医学部の図書館には、当時外国雑誌1300種類、日本の雑誌600種類くらい購入していました。名古屋市立大学医学部の図書館にも行きましたが、外国の雑誌は700種類くらいだったと思います。ちなみに後述のようにカリフォルニア大学のサンフランシスコ校の医学図書館は40年前でおよそ3500種類の雑誌をとっていました。大学と言うのは本当にありがたいところです。腐っても鯛と言うのか個人でどんなに努力しても、このような多数の雑誌を購読することはできません。時間があれば毎日毎日図書館に行きました。図書館には医学書を読みに行ったわけではありません。すべて英語の雑誌を見に行きました。英語の雑誌は毎月50種以上の雑誌に目を通していましたが、それでも、ひと月もたず、翌月の雑誌の到着が待ち遠しくて仕方ありませんでした。あるとき、図書館の男性職員が話しかけてきました。「私は医学部の図書館に35年間勤めているが、あなたほど勉強している学生は見たことがない。いったい何を勉強しているのだ。」と聞いてきました。私は答えました。「勉強しているのではありません。広い分野の医学の最先端を知ろうと思って雑誌に目を通しているだけだ。」と答えました。

 

医師国家試験

その年の秋の医師国家試験に大異変が起こりました。秋の医師国家試験はその年の三月までに卒業の認定単位が取れず、卒業が秋になった人が受けます。医師国試はそれまで五問のみの記述式でしたが多数の選択式(いわゆる○×式)の問題に変わりました。その秋の試験は名古屋大学卒業者は十数名が受けましたが全員不合格でした。私は国試の方式が変わることはわかっていましたから五年生の時から国試の勉強をしてきました。大学で国試の勉強をしていると若い同級生からからかわれました。誰も落ちていないのに何故勉強するのかというのです。私は年寄りで落ちると格好が悪いからと弁解していました。国試対策のための勉強のネタはアメリカの国家試験でした。もちろん英語の本しかありませんでしたが、それを二冊ばかり勉強しました。秋の国試で不合格者が続出したためか、我々が受けた翌年春の選択式の最初の春の試験(卒業直後)で大事件が起きました。試験問題が漏れていたということです。試験委員は大学教授ですが、特に関東の医科大学では試験問題が漏れていて、いろいろな問題が国試に出ると予想され、我々のクラスも代表が関東の大学に調査に行き、高校の時の同級生を頼ってかなりの問題を持って戻り、コピーして全員に配りました。その中には国試の問題はありませんでしたが、試験後厚生省は少なくとも一題は漏れていたことを認めたらしく、朝日新聞に載っていました。

 

 試験は初めての選択式で全くもって試験時間が足りなかったのです。私も最後の五題は全く見ることができず、選択式のABCDEのうち全部にCを選択したところ二題合っていました。試験後グループで話し合い、調べ、答え合わせをしたところ、自分の点数はみなさん64%前後でした。合格発表の前日Y君から電話がかかってきて私も合格だと知らされて安心しましたが、何故わかったのだと聞いたところ、「中日新聞に電話したら受験番号を言えば他人の結果も教えてくれる。」とのことですぐに私も確認の電話をしました。それで合格を確認し本当にほっとしました。私は三菱電機にいた頃は私がニターと笑うだけで自分が大失敗したのではないかと心配するほど怖がられていました。その私が六年間もこんなクダラナイことを続けたと思って自分ながら感心しています。卒業してから、他大学の卒業生に聞いたら、他の大学は卒業のためにしなければならない勉強がこんなに大変ではなく、選んだ大学が悪かったと思っています。

 

 

 名古屋大学の合格者は八十四名くらいでした。春の正規の卒業生と留年性合わせて百名くらいが受験しましたが、、、約十六名が不合格でした。こんなに不合格者が出たのは大学にとって初めてのことでした。不合格者は成績の良い人と悪い人の両端に集中していました。勉強しなかった人が落ちるのは当然として、比較的よく勉強していた人も落ちていました。何故かというと、ほとんどの人が時間が足りなくて、問題を見る時間がなかったからでした。翌年は試験時間が大幅に延長されました。国試の結果はアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどと異なり、「あなたは何点とれ、合格は何点以上、その結果、合格あるいは不合格」を伝えるのではなく、選択式のため、すぐに結果が出るのに発表までにかなりの時間をとり、なかなか発表しません。普通、試験はその点数分布が正規分布といって点の高い人、平均の人、低い人が山型をなしますが、医師国試は成績の良い国立と悪い私立がフタコブラクダのように二峰性だという噂が流れていて、発表前に各大学が自己の大学の合格の最低点が低くなるように喧々諤々主張して合格者が決まり、ある点以上が合格、それ以下は不合格のような単純でないという噂が流れています。いずれにしてもこの年の国家試験は大騒ぎでした。

 

第五章    三菱名古屋病院

三菱名古屋病院

私は学生時代から三菱名古屋病院という、三菱重工の付属の病院で実習していました。この病院は二百床の小さな病院でしたが内科にはYs先生という優れた循環器内科医師がおり、また、心臓手術もしていました。中部地方で唯一冠状動脈の心臓カテーテル検査ができる35ミリメートルのシネアンギオX線装置も設置されており、この装置は当時中部地方唯一のものでした。さらにスウェーデン製の大角という最大フィルムを一秒間に六枚連続撮影できるX線装置もありました。これらの装置はあの有名な東京女子医科大学よりも以前に設置されたものでした。国試合格後私はこの三菱名古屋病院に就職しました。最初に検査センターで採血や、心臓の検査をしっかり学び、続いて内科と外科を中心にすべての科で研修しました。

 

内科のYs先生は「研修は外科をしっかりやって来い。内科の研修はすべての研修が終わっても勉強ができるから。」と言われました。外科研修の中心は麻酔と術後管理でした。麻酔は全身麻酔をアドバイスを受けて100回以上、アドバイスをまったく受けずに100回以上しました。これは本当に勉強になりました。人間の意識をなくすなどということはただ事ではありません。これ以上勉強になることはありません。内科に戻って人を生かすのに最も勉強になりました。後は術後管理です。術後管理も本当に勉強になりました。当時の心臓手術は7%くらい術後死亡しました。生きていた人が手術で死亡するなんてただごとではありません。あらゆる手段で真剣に生かそうと努力します。本当に勉強になりました。勉強になりましたし、私は活躍もしました。

 

手術中の大事件

研修医になって半年位たった時だと思います。手術中にとんでもない事故が起こりました。それは心臓弁膜症の手術で、正確に言うと僧房弁狭窄症の交連切開術でした。左房と左室に穴をあけ、、片方の穴に先端が拡大して広げる器具を入れ、もう片方に指を入れて僧房弁の狭窄を治す手術です。心臓手術としては簡単で、人工心肺を使いません。穴をあけたところにはタバコ縫合といって穴の回りに一周糸を通しておきます。手術が終わったら糸を締めます。左室の穴の糸を締めた時、締め方が強すぎたのか、糸が切れて穴が開き、瞬間的に大出血で血に埋まり心臓が見えなくなりました。このような例は世界的には一年に何例かはおきますが、助かった例を先輩は知らないと言っていました。麻酔医は若い先生でしたが呆然としていました。この話は医師が読んだら信じられないというだろう話ですが、本当に本当の話です。私は医師になってわずか数か月の新米でしたが、誰もやったことがないことは誰でもどうしてよいかわかりません。そうなれば、論理的に最も良いと思われることをすればよく、例え研修医であっても私が最も得意だと思いました。私は外回りで麻酔をしていたわけではありません。私は大きな声で「私が指示を出します。」「私が指示を出します。」と2回怒鳴りましたが返事はなく、3回目に「私が指示を出します。」と言ったら、術者のYa先生が「出せ。」と言いました。なんと医師となって数か月の私にです。私はそれまで小さな奇跡を何度も起こし、いわゆる普通の研修医ではありませんでした。許可がおりたので、私は機関銃のように指示を出しました。あまりに多くの指示を出すためにオペ室の職員全員が来て指示を実行しました。それでも人が足りず、外科病棟から三人の応援が来て、そのうち一人は主任でした。主任は私の指示を大きな声で復唱し、誰がそれを実行するのか名前を呼んで指示してくれ、それが終了すると終了と大きな声で報告しました。輸血の予備は200ml 20本しかありません。直ちにそれを全部急速輸血し、新たな輸血用に100本を日赤に注文しました。私は術者に質問しました。「穴を指でつまんだか。」と。穴がなかなか見つかりませんでした。私も少し焦りましたが、血液はなくなり、電解質入りの水を急速にポンピングしました。その時電解質と貧血を含めた検査は5分おきに検査するように指示しました。二人が検査のため専用になり走り回っていました。案の定メチャクチャ貧血で電解質の値もメチャクチャでした。電解質を直さないと確実に死にます。私はあらゆる条件を考慮して暗算で計算し、メチャクチャに指示を出しました。手術記録を見るとわずか40分のうちに20ページ近い指示を出していました。

 

何とか生きているうちに輸血が届きました。普通はここまでで全員死んでしまいます。ここまで生きても次は止血です。体の血液は全部輸血の血液に変わっています。血液はすべて体外に出ると凝固します。従って、輸血用の血液は血が固まらないための薬が入っています。超大量輸血した患者の血液は全く止血能力がありません。急速にこれを解決しなければなりません。これは非常に頭が入り、かつ超スピード解決しないと絶対に血が止まらなくなります。日本最初の肝移植をT大が行なった時、手術で大量出血し、75本以上輸血したと報道されました。私は直ちに私のようにしなければ出血が止まらないだろう。従って100%失敗するだろうと予測し、その通りになりました。話を戻しますと、私は輸血の副作用での止血機能の低下を正常に戻すため、猛スピードで暗算し、再び、機関銃の如く指示をだし、何とか出血を止めまして、命を取り留めることができました。これは奇跡に近い事でした。手術した先生は名大第一外科のカンファレンスで発表しそれを学会で発表すると話したら、教授が「三菱病院は不思議なことが起こりますね。そのようなものを発表したって誰もが嘘と思うだけだから止めてくれ。」と言われたそうです。Ya先生は病院に帰ってきて、私にこのように言いました。「誰も信用しなくても良い。現実に生きているのだから。」と。このことで私の外科での信用が本当に高まりました。私が後で研究を続けたり、10回以上外国に行っても、そのことを院長も外科も賛成してくれたのはこの実績のお蔭だと思っています。

 

消化管穿孔の診断と手術

次にこれも私が研修医になってすぐのことでした。午後5時近くに27歳の男性が腹痛で入院してきました。ある内科の先輩の医師が主治医になりましたが、午後5時過ぎていたため胃ファイバースコープの検査はしてありませんでした。もっとも消化管の穿孔を疑う場合、消化管ファイバースコープ検査は禁忌です。私はその時副当直でした。入院前外来でとった立位のX-Pは主治医は異常なしとの所見でした。私が午後5時過ぎになって、内科病棟に行き、その日の重症者を聞いたところその患者を紹介されました。私が立位のその写真を見ると右横隔膜の下に他の先生は誰も認めませんが、微かに微かに薄く黒い線が見えました。患者を診に行くと腹部は板状硬で、私は強く消化管の穿孔を疑いました。三菱病院は小さく、その時、放射線技師の当直はいませんでした。私は放射線技師に今晩残業勤務してくれるよう依頼しました。また、その患者を再びポータブルでベッド上座位で腹部のX-Pを撮ってくれるよう依頼しました。その結果を見ると右横隔膜下の黒い線がわずかに強くなっているように見えました。病室には患者の妻がいて、「小さい子供がいるんです。何とか助けてください。」と言われました。この二枚の写真から推定すると消化管の穿孔が疑われます。私はその2枚の写真を持って医局に戻ったところ、主治医は帰宅していましたが、外科医は全員残っていました。私は彼らに「胃穿孔だからすぐ手術してくれ。」と言いました。外科医5人は大笑いで「こんなX-Pは消化管穿孔の所見ではない。」と全員から言われました。それでも外科医たちはすぐには帰らず残っていてくれました。私としては時間がたてば所見が次第にはっきりしてくるだろうと思い、何度もX-Pをとる予定でした。私は医局に残っている外科の先生に冗談を言い、お茶やお菓子を配り、好きな食事を聞き、内科の医局費がありますから、内科のナースステーションに行ってナースに出前を頼んでもらいました。夕食を出せば少しは時間が稼げると思いました。夕食が済み外科医は帰ろうとしました。私は出口で仁王立ちして泣くふりをしました。そうして、「もし明日出勤して患者が死んでいたら後味が悪いだろう。」と脅迫し、外科部長を引っ張ってソファに座らせました。そうしたら、他の外科医も戻りました。死ねば後味が悪いだろうとの言葉が効いたのでしょう。私はすぐに放射線科に連絡して、再びポータブルでかつ座位で腹部を撮ってくれとオーダーしました。さらにさらにポータブル装置を使ってX-Pを撮りました。前回のフィルムと比較すると、私に言わせれば少し黒い線が濃くなっていましたが外科の先生は認めず、「一度も消化管穿孔を見たことがない研修医が何を言っている。この写真は絶対に消化管穿孔ではない。」と言いました。こんなことがその後2~3回あり、まだ穿孔を認めてくれませんでした。それでも外科医は全員帰りませんでした。深夜十二時近くなった頃またX-Pを撮りました。さらに少し、黒線ははっきりしてきました。

 

外科の二番手の先生を引っ張り出し患者を見せました。二番手は「わかった。私が切ろう。」と言ってくれました。医局に戻って二番手は部長に「私が切りますから、先生拘を引いて下さい。」と言ってくれました。部長は君がそう思うのなら切ろうと言ってくれました。私は心底「助かった。」と思いました。粘った甲斐がありました。深夜、手術が始まりました。私も立ち会いました。お腹を開いて少し見たところで「久永君、何もないよ。」と部長が言いました。私は「あちゃー、やっちゃった。明日からもう病院に来れない。」と思っていたら、部長が偶然胃を押さえ、胃からマッチ棒くらいの太さののり状の物質が出てきました。やはり、常識では考えられないほど微少の穿孔だったのでした。手術が終わってからあんな穿孔あるのですかと聞いたところ外科医全員が見たことも聞いたこともないとのことでした。このことも私が研究をするのが容易になった理由で、私を特別変わった医師だと思ってくれたようです。

 

この様に私の外科研修は本当に以後研究するためにも、治療のためにも、私の臨床経験のためにも本当に役に立ちました。前述の何十倍もの経験をしましたが、ベテランになってから他の医師に話してもそのような経験をしている医師は誰もいませんでした。内科の臨床経験も本当に先輩に恵まれ幸せでした。優れた循環器科の医師であるYs 先生そして消化器科の二人の先生にも本当によく教えてもらいました。消化器科の二人の先生はなんと給料は三菱病院からもらい、国立がんセンターで3年間も研修した先生で、消化器の先生として飛びぬけて優れていました。三菱病院は全く働かずに給与を出すという信じられない病院でした。また、時代もそのような時代でした。

 

冠状動脈造影検査(コロナリーカテーテル検査)

私は完全に内科専門の医師になる前の研修医の時から内科の循環器グループに入り、心臓カテーテル検査は右心カテーテル検査、左心カテーテル検査、冠状動脈造影検査を行っていました。部長のYs先生は心臓カテーテル検査においては先輩のNg先生と私とのペアは世界一の技術のペアだと褒めてくれました。冠状動脈造影検査はその時は中部地方で三菱病院しかしていませんでした。していないというより、他の病院には設備がなかったのです。名古屋大学にはありましたが、よく壊れていました。その冠状動脈検査では特殊なカテーテルを使います。それはまだ販売されていませんでした。Ys先生は冠状動脈カテーテル検査(コロナリーカテといいます)をアメリカロサンジェルスのシーダースサイナイ病院に三年間留学して覚えてきました。その当時カテーテルは輸入されておらず、Ys先生がアメリカから材料を持って帰っていました。その材料で患者さんの胸部X-Pを見て、一人一人オーダーメードでカテーテルを作っていました。私が三菱病院に行く前は若い先輩が作っていましたが、すぐに作り方を私に教えて、すべての患者のカテーテルを私が手作りしていました。それから7年間何百例ものカテーテルを作り、また検査をしました。

 

綱渡りの治療

私は内科でも多くの患者の命をどの医師よりも助けてきたと自信を持って言えます。私はただ内科学を書物で学び先輩に教えを乞うて生かしたのではありません。どうしたら生かせるか本当に真剣に考えました。いろいろ考えて実行しましたが一番重要なことは、医師は病人が入院するとまず病名診断し、それに沿った治療をします。それだけではだめです。重症者が救急車で来たらもちろん診断して病名を知り、それに沿った治療をしますが、それだけでは不足なのです。不足というより、もっと重要なことがあります。重症の心筋梗塞とか心不全、消化管大出血とか脳梗塞で入院してきても、その病気に適した治療のみしても助けることはできません。どの病気でも重症の人は身体の生理学的、生化学的バランスがメチャクチャになってしまっています。どんな人でも人間は自分で治す力が備わっています。従って、その病気専用の知識に基づいた治療とともに、ともかく生きさせる治療つまり血圧、呼吸、水の量、電解質、体温、酸素濃度等のすべてを正常になるよう治療して、生かさなければ本来の病気を治す時間を稼げません。生かす治療で最も重要なのは綱渡り治療です。患者の状態は刻々と変わります。付きっきりの治療そして付きっきりと一日10回以上の検査が必要です。どんなに頭が良くても、どんどん最適な治療に変えていかなければなりません。例えば尿量は座り込んで導尿カテーテルからぽたっぽたっと落ちる滴数を数えながら薬の量を調整する必要があります。私はその人の病気の治療に全力を尽くすとともに生かす治療も全力でしたため、他の医師より、より多くの命を助けることができました。このことは本当に皆さんの前で講演したいくらいですが、誰も講演を依頼してきません。私の循環器科の上司は最初二人いましたが二人とも優れた医師でした。途中で二番手としてIc先生が入りました。この先生は難しい先生でした。この先生は後でとんでもない事件を起こすのですが、それは時間があれば書きます。

 

心臓超音波断層検査と名古屋大学第三内科

カテーテル検査は優れた検査ですがごく稀ですが、死亡事故が起こるほどの危険な検査です。何かほかによい検査はないかと思っていたら、超音波での心臓診断が限界はありますが、少しずつ普及してきたところでした。超音波を胸から心臓に向けて直線状に出して、その超音波が通ったところの心臓の動きを見る超音波Mモード検査が少しずつ普及し始めていました。1973年にヘンリーという人が胸に超音波を当てて、ごく狭い範囲ですが心臓の動いている断面が見える装置を発表しました。東芝の桜井という人がそれより少し遅れてヘンリーよりもっと広範囲を見られる装置を作りました。しかし、解像度がアメリカのものより低いものでした。東芝は東京から大阪までの有名大学に装置を持ち込み、テストを依頼しましたが、全部の大学が「見えないから」と言って断ったそうです。それで仕方がないから名古屋大学の第三内科のKb助教授のところに相談に行きました。 Kb先生はその話に飛びつきました。その話があった時私は医学部の六年生でしたが、Kb先生は私が工学部電子工学科を出ているというのを聞いて、私に協力を要請しました。その時はまだ機械は届いていませんでした。1973年の10月に機械が届きましたがほとんど見えず、実用になるものではありませんでした。他大学が断るのも無理ありません。設計者は桜井という東工大を出た人でしたが、その桜井氏は名古屋に長期出張で滞在して、毎日改良に努めました。あらゆるところを改良したようです。例えば胸に当てるトランスデューサ―(超音波を出して受ける素子)だけで50個あまり変えてテストしています。信じられない話でしたが、嘘ではありません。私は第三内科で50個のトランスデューサ―を見ました。日本のトランスデューサ―技術は極めて低く、また、製品に極端にばらつきがありました。恐らく、回路の改良だけではうまく行かず、トランスデューサ―に問題があることに気が付いたのでしょう。それにしても50個もの素子(トランスデューサ―)を交換しなければならないとは情けない話です。恐らく日本のTd,社、Ma社、To社の三社のうちの一社の製品だと思いますが、日本の会社の高度の技術製品の品質は当時極度に悪く、トランスデューサーは日本の恥と言える製品の一つだったと思います。桜井氏は当然外国製、特にアメリカ製に手を出すべきだったと思いますが、手を出せない環境だったのは非常に不幸な事だったと思います。後述のように私自身は外国に注文し何とか研究することができました。もちろん回路も大幅に改良しました。正確にはわかりませんが、改良は34か月続いたと思います。東芝は改良前のこの製品がよく見えなかったため、諦めて東北大学の大学院を出たIn氏に別の方法フェイズドアレイ方式の開発を命令しました。In氏は桜井氏のメカニカル方式を続けるのならフェイズドアレイをやらないと言いました。彼は私に直接言ったのです。そのことが関係あったのかどうかはわかりませんが、第三内科での出張改良が終わったら、桜井氏は東芝を辞めて、国立の研究所である電気試験所(現在の電子技術総合研究所)に転職しました。東芝は惜しい人材を失いました。新しいフェイズドアレイの装置は別に素子をIn氏が作るわけでなく、販売されているものを購入したと推定できますし(これは推定です。自社製かもしれません。)、他の各社はともに数年で開発し売り出しました。

 

名古屋大学第三内科での超音波機器の改良

名古屋大学の第三内科で行なっていた超音波断層撮影装置を使っての研究は主に三人の先生が行なっていました。若い二人の先生(Hi先生Ni先生)及びKb先生です。Kb先生は「Ni先生とHi先生は彼があった医師の中で最も優れた若者だ。」と褒めちぎっていました。私は最初から機械の中の重要なところを改良したかったのですが、若い二人は私が煙たいようですし、なかなか機械にさわらせてくれません。若い二人以外、第三内科の他の研究者にもほとんど検査させていない様子でした。それで機械の内部を触らないで済む改良から始めました。その時、第三内科は東芝に依頼して、断層像を8mmのフィルムで映画記録したいと思っていましたが、東芝も第三内科の先生方も驚くほど知識が無く、うまく撮影できませんでした。8mmフィルムで撮影するのは簡単でした。8mmシネカメラは世界に多数の種類のカメラが販売されており、フィルムも各種のフィルムが販売されています。どの機種のカメラ、どのフィルムでも取れるわけではありません。東芝のエンジニアは8mmのカメラ及びフィルムの専門家ではなく、映画撮影には苦労していました。世界中のあらゆる種類のフィルム、レンズ、カメラを知っている私としては簡単な話で、しかも最も適したカメラも私が自腹で買って用意しました。

 

超音波画像はブラウン管に写されますから、カメラをブラウン管に設置するフード状の台が必要です。それは木で作り、8mmカメラをブラウン管に設置しました。フィルムはカセットですし、若い先生方も何とか使いこなせて、8mmフィルムで撮影し始めました。しかし、私に対する感謝は全くありませんでした。撮影可能な8mmカメラは私でなく、東芝が設置したと勘違いしたのかもしれません。8mmフィルムでは1コマを引き延ばして拡大写真にした時、極めて分解能が低いため、次に16mm映画カメラで撮れるようにするように提案し、その装置も作り、16mmカメラも私の自腹で用意しました。16mmの撮影はフィルムとレンズの制限のため、東芝が用意したブラウン管(アメリカ製)では撮ることができません。やむを得ずもっとも輝度の高いアメリカ製の紫色のブラウン管を60万円で購入し、さらに16mmカメラも購入し、第三内科の機械に接続し、16mmで撮影可能としました。カメラもブラウン管も私の自腹で用意したということです。完全に撮影の仕方も教えましたが、レスポンスがあまりなく、本当に撮り方が分かったのかなと思いました。8mmと違って16mmのフィルムはカセットでなくリールですから私にとっては問題なくできることでも、普通の人からみれば、かなり難しかったのでしょう。私は教えながら、普通のカメラのフィルムをセットするより、けた違いに難しく、しかも真っ暗な中でセットすることは彼らの能力では無理かなと思いました。その上、8mmのフィルムの現像はどこのカメラ屋でも引き受けてくれますが、16mmフィルムの現像は国産フィルムでも京都の東洋現像所と横浜の横浜シネマしかしていませんでした。アメリカ製のコダクロームの16mmフィルムはアメリカでしか現像していませんでした。(嘘だと思うかもしれませんが本当の話です。)16mmシネフィルムの撮影を可能にしてから私が何度第三内科に行っても16mm撮影をしている様子は全くありませんでした。信じられないことですが、彼らではもともと無理だったと思いました。これを読んでいる方々は自分が教えられたのならできると思うかもしれませんが、実際はあなたが医師だったら難しいと思います。せっかく巨額のお金をだし自腹で16mmカメラを設置したのにがっかりしました。一方では本当に医師の頭に限界を感じました。それと同時に三菱電機の頭の悪い人でも、医師に比べたら天才だと思いました。この16mmのカメラとその取り付け装置、紫色ブラウン管は私個人のものですから、三菱病院で超音波断層装置を購入したら、第三内科から三菱病院に移し、16mm及び35mmで撮影するのに大活躍しました。

 

紫色ブラウン管と赤色フィルター

私が名古屋大学第三内科の超音波装置に新しい紫色のブラウン管を設置した時、一人の先生がその紫色のブラウン管で理由はよくわかりませんが、普通の35mmカメラで撮影をしようとしたところ、明るすぎて露出過剰となったため、赤色フィルターを購入し、使おうとしました。そのフィルターの説明書にはパンクロームに対して露出が二分の一になると書いてありました。ところがそのフィルターを使って写真を撮ったら真っ黒で何も映らなかったと私に相談してきました。私はそれを聞いてまたまた驚きました。私はそんなことが分からない人がインテリでいるのかと思ったからです。これは読者に質問ですが、読者は勿論理由はすぐわかると思いますが、心配ですね。理由はパンクロームで光の強さが二分の一になると書いてあるのは、パンクローム白色光(一般に太陽光)で二分の一の露出になるということで、赤フィルターはロウパスフィルターつまりは波長の長い赤色だけを通し、波長の短い紫色は全く通しません。従って、紫色ブラウン管からの画像が全く映らないのは当然で、これが第三内科の医師多数がわからないとは医師の頭脳はその程度かと思うと同時にどうしてそんな頭で研究するのか不思議でした。

 

%がわからない大学生

 20193月に芳沢光雄著の「%が分からない大学生」と言う本が出版されました。その本の4ページに「売上高が2000年に対して2001年は10%成長し、2001年に対して2002年は20%成長したとすると、2000年に対して2002年は何%成長したのか。」という問題を現在の大学生は半分以上が間違えるという話が書かれています。私は理系、文系のように分類するのは嫌いですが、理数系の人はほとんどが理解できるでしょうから、文系の人は恐らく7~8割の人が分からないのかもしれません。その文系の人がテレビ番組を作り、新聞を作っているのでしょうか。本当に悲しいことです。このことを考えると、前記8mm撮影のコマ欠け、赤色フィルターでの撮影不可が理解できないという事は医師はいわゆる文系の人かもしれません。これは極めて危険です。

 

抄読会

名古屋大学のKb助教授が毎週一回行っている抄読会という医学の勉強会に誘われました。これは医学部を出た若い先生にKb先生がアメリカの有名雑誌の研究論文を指定して勉強させ、それを抄読会で発表し、解説するものです。Kb助教授は「若い医師はその抄読会で論文の読み方を勉強するのだ。」と言っていました。Kb先生が「若い人に厳しい意見を言って指導してやってくれ。」と言うものですから出ても仕方がないと思いましたが、試しに出席してみました。午前8時半~12時半まで4時間の抄読会でした。出てみて、非常に驚きました。発表者の絶対的な英語力のなさにはまず本当に驚きました。次に生化学生理学、医学のそれも全く初歩的な事でさえわからないという情けなさです。その論文の価値は数分でわかるのにそれを何日もかけて調べ、何時間もかけて発表するとは信じられません。私は毎月少なくとも英語の雑誌50種類のできればほとんど全部の論文に目を通す必要があると思いますが、たった一つの論文にこんなに時間をかけては意味がありません。 みなさん絶対的な能力不足だと思います。それでもちろん一回しか出席しませんでしたし、Kb助教授に文句を言いました。Kb先生は頭が悪い事は本人の責任ではないから、もっと寛容でなければならないと言いました。

 

医師とシネカメラ

医師の能力がよくわかる別の経験もあります。これも撮影の話ですが、東芝の高速度超音波診断装置はレーダーと全く同じ原理で超音波パルスを直線状に放射し、およそ90度の扇形に走査するのですが、この東芝の機械では扇形の走査は往復運動走査でした。つまりうちわを繰り返し動かしてあおぐように往復走査するのです。それを8mmのシネカメラで撮影すると、8mmのシネカメラは通常毎秒18コマで撮影しますが、一秒間に30コマのブラウン管の画面を18コマで撮影すると画像がかけて90度以下になることがありますが、それが不思議だというのです。撮影コマ数より画面のコマ数の方が多いのに画像が欠けるのは本当に不思議だと何度も言うのです。読者はどうですか。何故90度の画像が撮れずに40度とか60度の欠けた画面しか撮れないのでしょうか。どうも8mmのシネカメラが一秒間に18コマで撮影すると、シャッターは18分の1秒間開いていると思うようです。18分の1秒間シャッターが開いていれば確かに多くのコマで扇形画面が欠けずに撮影できますが、18分の1秒間シャッターが開いても少ないコマですが欠けることがあるのです。しかし、シネカメラというものはコマ数分の一秒間だけシャッターが開いているわけではありません。何故ならフィルム撮影時、フィルムが止まっているときにシャッターを開き、シャッターを閉じてフィルムを一コマ分走行し、再び走行を止めてまたシャッターを開いて撮影するという操作をしているのからです。したがって、フィルムを送っている時間はシャッターを開いていないのは当然です。シャッターは一般に回転シャッターで光を通すところだけカットしてあります。回転シャッターのカットしてある角度をシャッター開角度と言います。したがって、シャッター開角度が180度の時18コマ/秒で撮影すれば、一コマにつきシャッターは36分の一秒開いていることになります。さらに走査が往復走査であることを考えなければなりません。このことは医師にいくら説明しても誰も理解してくれませんでした。私はこの程度のことをインテリが理解できないことに本当に驚きました。

 

三菱名古屋病院での心臓超音波断層機器の導入とその改良

前述のように名古屋大学の第三内科は東芝製の高速度超音波心臓断層装置を導入し、その機械を使って臨床研究し、業績を挙げていました。私もこの超音波心臓断層装置に魅力を感じました。Ys先生に頼んで購入することができました。まだ、フェイズドアレイの機械が売り出されていないときです。この機械式の装置は各種付属品を入れたら1000万円以上の高値なものです。現在の価値からいえば2000万円にはなるのではないでしょうか。197512月にその機械は届きました。驚いたことにその機械では心臓は全く見えませんでした。私はあわてました。せめて第三内科の機械並みに見えると思っていたからです。このままでは全く診断に役にたちません。しかし、私は前述のように設計図なしで大型コンピュータの設計ミスを全部発見した人間です。このような程度の低い機械など設計図が無くても改良できると思っていました。機械が届いたその日から改良をはじめました。一か月たたず、何とか診断に使えるところまで改良できました。どこを改良するかという問題ですが、電気信号の通路を全部改良するのです。まだ四分の一程度しか改良していません。桜井さんは自分がした仕事が意味あるものとしたかったので一生懸命改良したのでしょう。しかし、その結果を東芝に伝えず辞めたのです。私でしたらこの程度のものを設計させられたら、つまらないからすぐ会社を辞めてしまったと思います。ですから、私が改良すれば第三内科の機械より、すぐよくなると思いました。現に半年後には第三内科の機械並みによくなっていました。一年後の1976年の末にはその機械より、つまり桜井さんが改良したものより遥かに良くなっていました。第三内科が発表しても三菱病院以外は買わなかったのですが、私が発表したため、日本で何台か同じ機械が売れました。私の発表した機械の像があまりによく見えるので、買った大学が怒りました。「何故三菱に良い機械を持って行って、自分のところの機械では見えないのだ。」と言われているとある東芝のエンジニアが愚痴りました。「先生が良くするので迷惑している。」と。

 

東芝は困って三菱病院の機械を調べさせてくれと言ってきました。私は快く承諾し、三人のエンジニアが来て23か月くらい調べました。三菱病院の機械を調べに来たエンジニアは当然設計図を持ってきていました。私が設計図を見せてくれと言いましたが見せてはくれませんでした。それで私は私が改良した個所を言いませんでした。一般に私は日本のエンジニアのレベルのあまりの低さにあきれており、桜井さんが東芝から給料をもらいながら教えなかったんですから、設計図もなしに改良し、また設計図を見せてくれと言っても見せてくれないのに教える必要はないと思いました。それに恥を知っているからか、どうしたらよくなるのか私に質問しませんでした。東芝は数か月の調査で諦めたようです。私も彼らには私がどこを改良したかわかるわけがないと思っていましたが、本当にわからないようでした。彼らもどこか23か所改良したと思っているようでした。しかし、本当のことを言うとほとんどすべていじれるところはいじって改良したのです。それは何十か所以上だったと思います。

 

高解像度の経胸壁心臓超音波断層像の16mmフィルムの映写

私が経食道断層撮影装置を開発する以前の話です。極めて高解像度の経胸壁装置を開発し、ある学会で16mmフィルムで撮影した心臓像を発表した時のことです。左室の内面は滑らかでなく、網状の隆起した筋肉(肉柱あるいは誤って櫛状筋と言う人もいます。)でできています。これは左室が繰り返し強く収縮しやすくするための構造です。私が水平の心臓全体の超音波断層像を16mmフィルムで映写しますと、左室内面の隆起した網状の筋肉がイソギンチャクのように見えます。(ref.4写真B) その映画を見て東大の心臓専門の教授が質問しました。「心臓の内面はつるんとしていて滑らかである。そのようにイソギンチャクのように見えるのはおかしい。無いものが見えるとは何事ですか。」と軽蔑的に質問してきました。私は驚いて、「無いものが見えているのではない。左室の中は突起状筋肉の林であることも知らないとは信じられない。大学に戻って解剖学教室へ行って人間の心臓の中を見て勉強しなおしてください。」と言ったら、再び立って「心臓の左室の中は滑らかです。」と反論しました。私が再び「なんで心臓専門の教授がそんなことを知らないのか。」と言ったら、教授は三たび立とうとしたため、周りの若い先生が教授の体を押さえて座らせ、黙らせました。東大の心臓の教授がこんな基本的なことを知らないとは信じられませんが、本当に本当の話です。

 

心臓超音波断層法の欠点

超音波断層装置はいくら改良しても心臓を胸骨と肺のわずかな隙間から見ていますから、よく見える人は見えますが、年とともに隙間がなくなり見えなくなり、若くても太っている人は見えないという欠点があります。この欠点をなくすためには食道が心臓の真後ろにあり、その距離はたったの5mm程度で、何の障害物もありません。それで、食道に飲める用に小さく自分で経食道断層用のトランスデュ-サーの設計図を作り、日本のトランスデューサーメーカーの東北金属工業、TDK,松下電器産業に依頼しましたがすべて断られました。胸用のトランスデューサーを壊して自分で作ればよいと思いましたから心配しませんでした。そのような時1976年にアメリカのフラジンという人が心臓超音波検査のうち今はほとんど行われていない診断能力の低いM-モードの食道からの検査グラフを発表しました。(ref.2)少し残念でしたがM-モードは断層像でなく診断能力は低く、本命は断層ですから急いで開発を進めることにしました。

 

これから以後は私の医学の研究の話が出てきます。これは私にとって最も重要な話です。そのため時々文章が重複することがありますがお許し下さい。

 

1976年の世界超音波医学会

1976年8月世界超音波医学会とアメリカ超音波学会の合同発表会がサンフランシスコであることを知りました。私は発表の応募をしたかったのですが、三菱病院では洋書の雑誌の種類が少なく、このことを知りませんでしたし、第三内科も教えてくれませんでした。三内の先生が5人で行くというので私も行こうと思いました。近畿日本ツーリストの計画では25日間の予定で費用60万円程度のものでした。25日も新米で休めるわけもなく、60万円は高すぎます。近畿日本ツーリストにもっと短い期間で安くしろと言ったら、7人集めたら8日間20万円以下のツアーを組んでくれるというので三内の先生をさそったら私を含めて何とか7人集めて8日間で行けることになりました。三菱病院もそれくらいならと新米でも許可してくれました。私の初めての外国旅行でした。

 

サンフランシスコのホテルに着くと三内のうちの二人の先生が私に自分の家へ電話をかけてくれというのです。私が「受話器を上げてオペレーターの番号を回し、オペレータが出たら、ロングディスタンスコールプリーズ ジャパン と言ってあとは番号を言うだけ。」と教えても、それが英語で言えないというのです。仕方がないので私がかけてあげました。これが名古屋大学医学部を出た人だと思って驚きました。食事にはもっと驚きました。私はホテルを出てドラッグストアに行って、食べたいものをジスと言って指さし、それを買ってそこで食べてきたのですが、他のみなさんはそれができず五人でゾロゾロゾロゾロ日本食堂を探しに行き、探し出せずに何も食べずにホテルに戻って来たりしていました。みなさん毎日観光に明け暮れ、六日間の学会に毎日参加したのは他の大学を含めた日本人のうち私だけでした。

 

私は比較的英語が得意のため、アメリカに行っても、まず英語で困ることはありませんが、驚いた経験があります。アメリカの超音波学会に行って「アバウト オクサン イズ ジャパン ヘッド ツゥ ユナイテッド ステイツ」(「オクサンに関して日本はアメリカより上か。」)と質問されました。このオクサンの意味がまさか奥さんでもないでしょうに、すぐには理解できず、二度も聞き返してしまいました。オクサンはウルトラサウンドつまり超音波でした。超音波の学会に行って超音波と言う英語がすぐにわからず、聞き返してしまったのです。それまでに何度も超音波という英語はアメリカで聞いていました。超音波はアルトラサン、アルトサン位ならすぐわかりますし、オルトサンもわかります。しかしオクサンはすぐに解らず聞き返してしまいました。

 

私は特に超音波診断の機械の展示に毎日行き、見たり調べたりしていました。学会の3日目になり、アメリカのトランスデューサ―のメーカーの展示を熱心に見て帰ろうとしたら、展示していた会社の人が私を追いかけてきて、「何故毎日何回も見に来るのか。」と質問してきました。私が「特殊な形のトランスデューサ―が欲しいがその形に改造できるトランスデューサ―を捜している。」と答えると「いかなる形のトランスデューサ―も客の希望のように作る。」というのです。明日エンジニア兼副社長を呼んでくるからまた来てくれとのことでした。そして、あくる日行くとヒゲのMIT出の副社長が待っていました。私は手書きの図面を書いてきたのでそれを見せるとこれは簡単だというので、胸壁用と私が設計した食道用の四種類を注文しました。驚いたことにその時この会社は日本の会社との取引がなく、「もし、日本で会社の名前を論文に入れてくれたら安くするのでもっと注文しろ。」と言うのですが、私がそれ以上は金を持っていないというと金は後でもよいとのことでした。これで食道の超音波断層装置のトランスデューサ―に関する準備は終わりました。

 

ところで、先ほど述べた今はあまり使われない診断能の低い経食道Mモード検査の1975年のCirculationでのアブストラクトでのフラジンの発表から2年後、日本の本州西部の地方大学の若い優れた先生がMモードの食道用のトランスデューサ―をアロカに作ってもらい、世界最初の食道のMモード診断と言って1977年に発表しました。私は驚きました。世界最初のフラジンの発表から少なくとも2年度は遅れているにもかかわらず、世界最初というとは私が悲しくなりました。その先生は後に世界最初というのは訂正し、臨床的に世界最初とか、自分が計画している最中に発表され、しかもそのことを知らなかったと言って弁解しました。彼が計画してメーカーに依頼する前に既にAHAの学会で発表され、アブストラクトも世界一有名な雑誌「サーキュレーション」に発表されていましたし、さらに彼が日本の学会の発表の前に世界一有名な「サーキュレーション」という雑誌にフル論文(ref.2)が出ているのにもかかわらず、知らなかったというのには少し驚きました。

 

超広角度超音波セクタースキャナーの開発

話を戻します。1976年の秋に私は私が設計してアメリカの会社に製作を依頼していたトランスデューサ―が胸壁用食道用ともに届き、扇形走査を90度から120度に広げた広角装置を開発したところ、非常によく見えるようになりました。それを1977年春の日本超音波医学会で発表しました。(ref.3)みなさん驚き唖然としていました。その年の超音波医学会が日本に呼んだアメリカ人の特別講演の講師は非常に有名なロチェスター大学のグラ×××ク氏でした。グラ×××クは有名で日本人はみなさん尊敬していたようです。グラ×××クはコントラストエコーという現象をシャー氏とともに発見したことで有名でしたが、本当はコントラストエコーはジョイナーという学者が発見し、それを口頭で発表したのですが、論文にしたのがグラ×××クで、いわゆる本当の発見者でないことを私はよく知っていました。本当の発見者がジョイナーであることはグラ×××クも認めていました。私の発表後私にグラ×××クが直接話しかけてきてやたら私を褒めました。私はグラ×××クごときに褒められるのは心外でしたから複雑な気持ちでした。学会が終わって間もなくグラ×××クから手紙が来て、共同研究したいから、アメリカに来ないかとの話でした。私はただ研究を盗まれるだけだということを本当によく知っており、そんな話に全く興味ありませんでしたから、丁寧に断りました。

 

第六章    経食道断層超音波心臓断層装置と超音波内視鏡の開発

経食道超音波検査と安全性の確認

経食道超音波断層あるいは超音波内視鏡の装置を新しく開発しますと、その安全性を人間でテストする必要があります。私の後輩の医師四人、同級生の医師一人、当時の三菱病院の院長まで私が開発した経食道、経胃壁の超音波断層装置をテストのために複数回飲んでくれました。一部の医師には論文の共著者として載せてやるとおだててテストに応じてもらいました。機械を7種類開発したため、多数の被験者が必要でした。もちろん私も自分自身でチューブを何回ものみました。10回以上は飲んでテストしたと思います。しかしなんといってももっともテストに協力してくれたのはwife です。多分チューブを50回以上飲んだのではないでしょうか。この回数は世界記録だと思います。彼女の協力なしには機械の開発はできませんでした。そのため、私の経胃壁、経食道のすべての論文に彼女が載っています。その結果、嫌なことがあっても彼女と離婚しずらくなり、今に至っています。

 

1977年のアメリカ超音波医学会での発表

この辺からだんだん話が面白くなっていきます。1977年アアメリカ超音波医学会の時のことです。この学会に発表すると「Ultrasound in Medicine(ref.4)という本に論文が掲載されるという有難い学会でした。私はその学会で二つの論文を発表しました。 ロチェスター大学のグラ×××クが邪魔をしてくることは簡単に予想できました。私の発表は土曜日午前10時で最高の時間でした。ところがグラ×××クが話しかけてきて、世界的にかなり有名だが私に言わせれば研究能力があるとは言い難いオーストラリア人のコ××という人の「発表が午後4時半で、母親が病気でオーストラリアに早く帰る必要があるから私と発表の時間を交換しろ。」というのです。私は勿論同情しますが私の発表時間は最高で、午後4時半にはほとんど人が帰ってしまうから替える気はしません。私は「共同研究者が多数書いてあるからその人にやって貰え。」と言いました。私の発表の座長を見たら座長はグラ×××クの弟子で女性でした。さすがにグラ×××クは妨害も二重にしてくるのですからたいしたものです。

 

私が発表する論文の題から、私が胸壁からの世界最高の心臓像と食道からの世界最初の画像を発表するのは明らかだったからです。私が発表する時は最前列の椅子の前には床に直接座って聞く人たちが二列にもなっていました。発表ではスライドを変えるごとに強い反応がありました。スライドの発表を終えて16mm映画を映そうとしたら、座長がそれを禁止しました。もちろん事前に16mm映写は許可を得ていました。私は「自分の映画をストップするのは学問の進歩の妨害だと抗議すると同時に、スライドを見た人なら映画を見なければ損をする。」と言ったところ、観客は映写しろという反応でした。16mm映画の映写技師が映写をしようとしたら、座長は演壇を降りて16mm映写機の電源コードを引っこ抜いてしまいました。観客は私と映写技師に「続けろ、やれ。」との喝采でした。映写技師は段から降りて電源コードのプラグを差し込み映画を始めました。すごい拍手喝采でした。発表が終わって会場近くのベンチに座っていると、隣のベンチに有名な超音波機械の研究者がうなだれて顔を隠してがっかりしているようした。後でわかったことですが、私に45年遅れて経胃壁の機械をつくり発表していましたから、私に先を越されたのがショックだったのかもしれません。

 

これで私は何とか経食道超音波心臓断層の世界最初の発表に成功し、しかもこの発表は翌年1978年の1月「Ultrasound in Medicine Vol.4(ref.4)という本に12ページの論文が印刷発表されるという付録がついていました。これで学会発表だけでなく、論文も本に乗せることができました。この経食道断層検査は10年後には世界中に普及し、心臓の検査、心臓の手術中のモニター、整形外科の足の手術の肺塞栓の診断モニター及びCCUのモニターに使用され、心臓病患者の死亡率の低下と、整形外科手術中の肺塞栓の治療に非常に役立ちました。若い人への忠告ですが、自分が世界最初に何か素晴らしい研究をしたら、論文が本として印刷出版される学会か、二流雑誌でよいから英文雑誌にできるだけ早く発表することです。超一流雑誌に論文を載せるには時間がかかります。それに超一流雑誌は査読者に読まれ、盗まれる場合が多いのです。それより、本が出版される学会の発表か、二流雑誌の方が早く載ります。昔と異なりインターネットがあり、誰も読まない雑誌でも論文を自分でインターネットにのせれば読んでくれますし、無視できません。有名誌を狙えば盗まれることも覚悟でしなければならないし、盗まれなかったら大した研究ではないともいえます。もっともこのような心配は読者が意味ある研究をする可能性はほとんどなく、余計な心配かもしれません。

 

ヨーロッパ超音波医学会での発表

経食道断層のアメリカでの発表と12ページの英語での論文(ref.4)発表に一応成功したため、ヨーロッパでの発表も必要と思い、197810月のヨーロッパ超音波医学会に応募したところアクセプトされました。アクセプトされたというより、もしかしたら落ちた人はおらず、全部アクセプトされたのかもしれません。学会はイタリアのボロニアでありました。私の初めてのヨーロッパ旅行でした。ヨーロッパへの直行便はなく行きはアラスカのアンカレッジ、帰りはモスクワ経由でした。行きはアンカレッジで給油しコペンハーゲンからミラノへ、ミラノから車でボロニアへ行きました。ボロニアについて学会に出席するとアメリカより超音波ははるかに遅れており、金を使って来るべき所ではないと、すぐ気が付きました。私は胸壁からの心臓超音波と経食道心臓超音波を発表しました。既に私のことはヨーロッパの専門家にも知れ渡っていました。「Ultrasound in Medicine Vol.4(ref.4)の論文が効いていたようです。

 

変わった日本人

私の発表した会場で別の日本人が私の前に発表することになっていました。東京農工大学の教授のIt先生でした。彼の英語のひどさには度肝を抜かれました。それはいいとして、発表時、彼が16mm映画での発表をすることになっていて、発表者のIt先生と座長と映写技師とでもめていました。もめるのは自由ですが、なぜか私が呼ばれました。座長が「英語が通じないから通訳してくれ。」と言うのです。何をIt先生に聞いていたかというと、「16mmフィルムがトーキーかサイレントか。」と言うことでした。そのことをIt先生に伝えると、「トーキーだ。」と言いました。そのように伝えると、今度は「トーキーならオプティック光学かマグネティック磁気か。」と聞いてきました。それも通訳するとIt先生、なんと、「どちらかわからない。」というのです。自分のフィルムがどちらかわからないとは信じられません。それで仕方なく、私がリールからフィルムを数メートル引っ張り出して見たら、マグネティックとわかったため、それを伝えました。これが東大工学部を出た、農工大の教授とは本当にあきれると同時に日本人として非常に恥ずかしくもありました。私の発表は予想通り好評でしたが、こんな学問的に遅れた所で発表しても仕方がないと思いました。

 

ボロニアのパーティ

順天堂大学の産婦人科にW教授という先生がいました。翌年の1979年に日本の宮崎で世界超音波医学界を開く予定があり、その時の発表会の会長でした。そのW先生がボロニアの私のホテルの部屋に訪ねてきました。そして、「来年の日本での世界超音波医学界の開催に関連して、今夜パーティーを開くが、東大系、京大系と少しトラブルがあり、日本人の出席者が少ないため、パーティーに出席してくれないか。」とのことでした。私、久永は「そこそこ名が知れているから、東大系だと困るが、そうでなかったら出席してほしい。」との事でした。土下座せんばかりに私に頼みました。私も特に予定がありませんでしたから、喜んで出席すると返事しました。パーティーは夜9時過ぎに始まりました。私が知っている出席者は大阪大学の仁村先生夫妻と順天堂大学産婦人科の竹内助教授等でした。パーティーでは仁村先生の奥様の和服姿が映えていました。外国人は大勢の参加者がいましたが、食事の量が少なかったのか一時間で食べ物がほとんどなくなってしまいました。日本のパーティーには何回も出ましたが、日本並みの食べ物の量では外国人には少なすぎるようでした。出席した外国人は食べるものがなく手持ち無沙汰でしたlまた、日本人は10時過ぎに皆さん帰ってしまいましたが、外国人は帰らず、外国人が相手のパーティーは食べ物は日本人相手の何倍も必要で、また、午前23時まで間が持つアトラクションを用意する必要があると思いました。

 

ベネチアとフィレンツェ

イタリアボロニアの学会が終わってからベネチアとフィレンツェに行きました。フィレンツェのウィフィッチ美術館は本当に素晴らしいと思います。特にボッティチェルリの「春」と「ヴィーナスの誕生」が並んで展示してあり、長時間眺めていたら、三井記念病院の町井潔先生に見られていたようで、笑われてしまいました。ベネチアについては仁村先生の奥様に「運河でゴンドラに乗らず、モーターボートにしか乗らなかった。」と言ったら、「ベネチアに行ってゴンドラに乗らないとは、何のためにベネチアに行ったのだ。」と笑われました。ヨーロッパ行きは観光旅行としてはともかく、学問的には得るものは何もありませんでした。

 

1979年の宮崎での世界超音波医学会

翌年W先生が発表会の会長で、宮崎で世界超音波医学会がありましたが、名古屋大学の第三内科の先生の話では、東京か京都で開きたかったそうですが、妨害されて宮崎になったとのことでした。この1979年の宮崎での世界超音波医学会は私も「ファイバースコープ付経胃壁超音波断層撮影装置とその臨床応用」(ref.13)と「経食道の超音波断層の臨床応用」を発表しました。経食道の超音波断層の発表は座長が私の知らない人で、また、明らかにヨーロッパの人でした。ヨーロッパは相当超音波で遅れていましたから「嫌だな。」と思っていたら、予想は大当たりでした。私が16mmの映画を映写時、普通の速度とスローモーション映写をしたら、座長が私に異論をはさみました。16mm映画は24コマで映写したのですが、断層の機械は一秒間に30コマで検査しているのに、24コマで映写機を動作させ、5倍以上のスローモーションで心臓の動きを映写しているのに、像が欠けないのはおかしいと言うのです。何故なら、24コマ/秒で映写していて、5倍のスローモーションの映写なら24×5ス縄日120コマで撮影したら像が欠けるはずで、この映写は像が欠けていないからおかしいと言うのです。私が「全く16mm撮影と映写も知らないのに間違ったことを言うな。」と言い、「あなたは映画のことは何も知らないし、私のように技術的な事は知らないからそのようなことを言うのでしょう。」と言って映画技術のことを細かく説明してもわからず、「自分が正しい。」と言いうのです。映写機を見ると高級そうで、映写技師に6コマで映写できるかと聞いたら、できるというので、6コマ/秒で映写すると、明白に画面が欠け欠けで、観客から拍手が起こりました。アメリカ人でしたら、私の能力を知っていますから、こんなバカなことは言いません。全くレベルの低い人が座長になると迷惑です。

 

1979年のこの学会のプロシーディングが「Ultrasound in Medicine and Biology」という題でExcepta Medica から英語で出版されましたが、もちろん、私にも名古屋大学第三内科の多数の意欲的な発表者にも執筆依頼はありませんでしたが、それでもそのプロシーディングを購入してみたところ、510年遅れた論文ばかりでした。W先生もただ名誉の売り買いの人だったのかと思ってがっかりしました。

 

アメリカの学会と日本のメーカーのエンジニア

日本の学会では、日本のメーカーのエンジニアとは日立以外に親しく話すことはそれほどありませんでしたが、アメリカの学会ではみなさん遠慮がなくなるのか比較的各社のエンジニアとフランクに話しました。あるエンジニアは「日本の学会で私と話していると、関東、関西の偉い先生ににらまれるから、わたしとは話せない。」と言っていました。日本のメーカーのうち二社のエンジニアは、私を避けるどころか私に特定のメーカーの機械を見てくるように依頼し、その評価を求めました。「私以外の日本人の学者に過去に依頼したが何の役にも立たなかった。」と愚痴っていました。依頼するのは学会の参加者は学会のパスポートを胸につけるため、メーカーだとわかってしまい、質問とか長時間見ることができないからです。各メーカーはその見返りに夕食をご馳走してくれました。おかげで外国の高級日本料理店に何度も行って食べることができました。1979年アメリカでの私の発表の映画を見て、東芝の社員が「先生の開発のスピードが速すぎて、追いつくことができない。」と言いました。発表のスライドではなく、機械の動作中の16mmの超拡大画面を見て、その複雑さに驚き、それが手作りだと専門家ならわかりますから、「よく、あのような機械を自分で作るなあ。」と感心すると同時に、私の研究スピードの速さと断層像のあまりの分解能の高さに「何をやっても勝つ事ができない。」と言って、「食道断層の重要さはわかっていても機械のテストも胸壁と異なり、できた機械が飲みやすいか、あるいはよく撮れるか確認することもできず、本当に困っている。」と言っていました。

 

メーカーの開発

私はどんなに遅くても二年で日本のメーカーが食道断層を作ってくると思っていたのに、何年たっても作ってきませんでした。私はさらに経胃壁超音波断層装置(超音波内視鏡)を開発し、1978ref.6,ref.7)年と1979(ref.13,ref.15)に三度に渡って発表しました。3年たって1秒に4コマのため全く心臓用としては役に立ちませんが、経胃壁断層装置をO社が作ってきました。(ref.31,ref.43,ref.45)しかし、コマ数が少なければよく見えるはずですが、かわいそうなくらい像の質が悪いものでした。それは素子を動かさずに反射板を動かす最低設計でしたが、O社のエンジニアは「久永氏とは似ても似つかない方式になった。」と言っていました。しかし、私には経食道パルスドップラーの最初の発表で苦肉の策として反射式を使っており、それを真似たのは明らかです。また、視野90度の扇形で1秒4コマ程度の速度の低いものでした。というより、往復運動では素子を回転軸として細いワイヤーで駆動すると素子と手元のポテンシオメーターとの間にずれが生じて、例えズレの修正装置をつけても、それ以上あげられなかったのでしょう。また、オイルバッグは私が苦労したくらいですから、O社の技術では高速回転に長時間耐えるものができるわけもなく、また、胃内脱気水充満法も知らずにさぞかし苦労したことでしょう。私はその結果を見て、笑えてきました。この反射式がダメなことは明らかですから、1~2年で反射式は止めたようです。そして反射式でない装置を作ると同時に、私の発表を真似てオイルバッグなしで胃内脱気水充満法を用いた検査で発表してきました。しかし、経食道の方は私の発表から5年もたって米社のSouquetが作ってきて、やはり像が悪いため、アメリカでは恥だと思ったのでしょうかドイツで発表しました。案の定、分解能はかわいそうなほど低いものでした。

 

名目上フェーズドアレー経食道断層装置が日本製として日本のメーカーによって発表されたのは米社より一年以上後で、私の食道断層発表から6~7年後でした。私が世界最初に経食道断層を発表したのに、しかも経食道断層が有効だともっともわかっているはずの日本のメーカーがアメリカに完全敗北したのは私には驚きであり、悲しくもありました。その時、それまで世界でも最高クラスの技術レベルの日本の超音波機器メーカーが恐らく衰退してゆくと予想できました。その後、10年以上たって、その予想は見事にあたり、超音波診断装置はGE,フィリップス、シーメンスが中心となり、日本のほとんどの病院が外国メーカーのものを採用しているのは本当に悲しくなりました。ただもっともシェアの高いGE製品は日本の横河電機が相手先ブランドとして日本で製造しているのが唯一の救いです。全く情けない。私が日本のメーカーにいて、好きなように設計させてくれたら、こんなことにはならなかったと思っています。

 

いずれにしても、他の研究者が経食道装置(ref.39)、経胃壁装置を発表したら私の役目は終わりだと思っていましたから、それ以後発表はやめることと予定していました。止めることにしたというより、続ける金がありませんでした。学生時代のコンピュータ学校の講師の収入による貯金のすべて、医師になってからの収入の三分の二は研究に投入していましたから、生活はメチャクチャです。また、自宅は全く町工場のようで、足の踏み場もありませんでした。患者を診ながら、よく7年間も研究したものと思っています。前述した名古屋大学第三内科の助教授は、後に病院の副院長として赴任してから「病院で患者を診ながらの研究は不可能と思うほど難しいことが分かった。」と言いました。

 

アメリカのFDA 食道での電気の漏洩

医学の研究にはいろいろ厄介な問題が出てきます。1978年のアメリカの学会の時です。突然FDAの職員二人が私を呼びとめました。そして、経食道断層の電気的安全性について質問してきました。実は日本の学会でも超音波医学会か循環器学会か覚えていませんが、私に「超音波装置のプローブに何ボルトかかっているか知っているか。それを飲ますなんて危険だ。」と質問してきた人がいました。もちろん私は全く安全である理由を細かく説明しましたが、質問者は全く電機の知識が無く、わかったかどうかわかりません。FDAの職員が安全性に関して質問してきたのは電気的な事だけです。例の如く「1000V近い高圧がかかっているから極めて危険で、ましてそれを飲ますのは極めて危険だ。」と言うのです。私は「日本人が日本で研究しているのだから、アメリカには関係ない。」と言ったところ、「発表すれば関係ある。協力しなかったらアメリカで発表できなくしてやる。」と脅されました。それで私は直ちに「安全だ。」というと同時にその理由を説明しました。質問してきた彼らは何百ボルトもの電圧が素子にかかっていると勘違いしていたのです。それからFDAの職員は電波的高周波、低周波あるいは交流、直流の区別も、そして素子にそのうちの何がかかっているかも知りませんでした。従って、私は英語でどのような回路で素子を電気的にたたいているかを説明しました。医師は若い人も年寄りも、昔の医師でなく現代の医師でも、どんな電気的回路で素子をドライブしているか全く知らないでしょう。私はFDAの職員に「素子はまず3.5メガヘルツ以上の高周波でパルス的にドライブしている。最終段のパワートランスデューサ―に仮に500Vの直流がかかっていても実際素子にかかるまでトランス的高周波コイルを二段(2回)にわたって通過しており、したがって電波的超高周波が同軸ケーブルで伝わっているだけだ。」と。しかもその電波的高周波の波はパルス状で一回のパルスでわずか3~4波長つまり百万分の一秒のみで、これが一秒間に5000回程度ですから1/200の時間しか超高周波は出ていません。従って私の使っていた装置では電波出力は平均すると1/100ワット以下で問題なく素子も全く熱を持たないと言いました。FDAは熱を持つことも心配ですが、感電も心配していました。私は何度も言うように「使っているのは3.5メガヘルツの電波的高周波で交流でも直流でもない。3.5メガヘルツの電波的超高周波は人間の神経は電気的に反応せず、心配なのはエネルギーのみでその出力は極めて小さく何の問題もない。」ことを説明してもなかなか理解してくれず、やむを得ず電気メスの話をしました。「電気メスはお尻に金属板をあて、お尻の金属板を片方の電極として、もう一方の電極を電気メスにしています。この電気メスを人間に充てると高周波の電気が流れますが、お尻の電極板は面積が広いため抵抗が少なく、発熱せず、電気メスの先端は細いため人間に充てると抵抗がありそこにエネルギーが集中し、高熱で人体を焼切るのです。しかし、人間の心臓等には何の害もありません。それは神経的に反応するにはあまりにも高周波で神経的にみれば、プラスマイナスゼロで反応しません。」このことを言ってやっとわかってくれましたが、念のため、あくる日トランスデューサ―の製作を依頼したメーカーの副社長と二人でFDAの職員に会うことにしました。私はFDAの職員に今は使われない食道からのM-modeを発表したフラジンにもこの話をしたのかと質問したら、したような、しないような話でした。フラジンはAHAの学会とサーキュレーションの論文のみしか発表していません。私の勝手な想像ですが、フラジンはFDAに言われて、彼は医師のため超音波検査の電気がどうなっているか知らず(知るわけありませんが)反論できなかったのでしょう。あくる日、前述の副社長とともにFDA職員と会い、詳しく説明するとともに、副社長経由でFDAに私の臨床使用結果も報告しました。

 

フレキシブルチューブと回転スキャナー

私の研究においては食道まで飲めるトランスデューサ―が一番重要であることは勿論ですが、それは前述のように私が設計して日本のメーカーの三社に製作依頼したら、全くの門前払いでアメリカに依頼したら、複数の形のすべてを私の言うとおりに作成してくれ、本当にありがたかったのですが、次の問題はフレキシブルチューブです。これは作ろうと思って色々なアイデアがありましたが、結局ある機械の一部の部品を転用することで解決しました。これは金属製のフレキシブルで中空のらせん状外筒と細い逆らせん状の内筒を組み合わせたものです。そして、その先端にトランスデューサーをつけるのですが、トランスデューサ―には当然同軸ケーブルがついています。内筒を使ってトランスデューサ―を回転すれば、同軸ケーブルも回転せざるをえません。それでやむを得ず、初期にはセクタースキャンにしました。セクタースキャンは往復運動のため視野がせまいのと、回転スキャナーに比し少し振動があるのが欠点です。しかし1977年の最初の発表では簡単なセクタースキャナーを作り発表(ref.3,ref.4)しました。1978年にファイバースコープ付のセクタースキャナーを作成し、世界最初の経胃壁の超音波像を発表(ref.6,ref.7,ref.13)しました。それと同時に1978年トランスデューサ―が上下運動をする経食道リニアスキャナーを開発し(ref.5,ref.26)、人間の経食道の垂直心臓断層像を発表しました。その後、1979年にどうしても広範囲の断層像を得たいため、高速度経食道超音波回転スキャナー(ref.14,ref.16,ref.25)と経胃壁超音波回転スキャナー(超音波内視鏡)(ref.15)を開発しました。これは想像以上に素晴らしいもので、学会での16mm映画の発表は圧巻で素晴らしいものでした。特に、経食道の断層像は最高で、40年たった今でも、解像度と視野の両方において、私の像に勝るものはないと確信しています(ref.25)。CT、MRI、PET等の映像診断のすべてが3040年たてば桁違いに解像度が上昇しているのに対し、経食道超音波だけは、40年前の私の像の方が良いとは皮肉なものです。 何度も言いますが、40年以上たってもメーカーが私以上の高解像度の像を出せないとは情けない限りです。        回転スキャナーは簡単ではありません。なぜなら、素子を回転すると当然同軸ケーブルも回転せざるをえません。同軸ケーブルを回転させることは不可能ですから、複数のコミューテーター(複数の整流子)が必要です。素子の下に超小型の整流子をつけるのは結構大変でした。しかし、私のチューブは内筒と外筒に別れており、らせん状の金属製ですから、これが一個の整流子の役割をし、追加の整流子は一個で済みました。しかし回転スキャナーの画像は最高で開発した意味は充分ありました。

 

ステッピングモーター

回転スキャナー、セクタースキャナーはメカニカルな操作でしたらモーターが曲者です。モーターで最初に使ったのは誘導電動機でした。整流子はありませんから整流子のノイズはないのですが、50~60ヘルツの交流を使います。この交流によるノイズが結構強くて困りました。交流モーターではサイリスターによる入力電気の波形変形で速度をコントロールせざるをえません。直流モーターには整流子があります。この整流子がノイズ源になります。従って、どちらも超音波装置には巨大なノイズ源になります。特に高速にするとノイズが増します。このノイズの消去には本当に苦労しました。つくづく超音波装置は微妙で精密なものだと思います。それで回転スキャナー開発においては、重大な決断をしました。モーターを普通のエンジニアが知っているモーターは全く使わないことにしました。パルスモーター(ステッピングモーター)を使うことにしました。パルスモーターを知っている人がどのくらいいるかわかりませんが、パルスモーターというのは単なる回転運動をするモーターではありません。例えば指令次第で90度つまり四分の一回転のみでぴたりと止めることができます。もちろん1.5回転のみでぴたりと止めることもできれば、連続回転を極めてスムースに駆動することもできます。41年前の当時は常識はずれの高価なモーターでしたが、秋葉原で何とか複数台手に入れ、これで駆動したところ大成功でした。全くノイズはなくなりました。日本のある会社が作った初期のメカの経胃壁装置が1秒に4コマだったのも、その他もろもろ高速にするとトラブルが発生しますから、それを皆解決するほどの能力がなかったのかもしれません。ステッピングモーターの事は日本のメーカーも外国のメーカーのエンジニアも誰も知らなかったのでしょう。研究するには本当に幅広い知識が必要で、その知識が問題解決に非常に役に立ちます。

 

オイルバッグ及びオイルバルーン

機械の開発の場合、機械が複雑だとか、精密だとかいうことは、頭を使えば世界最初の機械でもそれほど困難ではありません。所詮金属その他の材料を削り、加工し、それを組み立てればよいのです。つまり、頭を使えば何とかなります。電気回路については専門ですから、メーカーより私の方が上でしょう。もちろんそれは物を作ったことのある私だからの話です。医師のように、物を作ったことの全くない人の話ではありません。私は変なところで結構苦労しております。トランスデューサ―(素子)にフレキシブルなチューブをつけて、のますのはよいのですが、素子と食道壁との音響学的な接触性が良好なことが望まれます。それにはバルーンまたはバッグで素子を囲み、バッグの中に水かオイルを入れればよいのです。しかし、このオイルバッグの作成に非常に苦労しました。それはオイルバッグがその中で素子が高速で回転しても長時間(たとえば数百時間)破れないほど強く、また弾力がある必要があります。これには本当に苦労しました。最初ビニール、ポリエチレンのシートで袋を作ればよいと思い、バルーン状にするためには接着材かまたは熱で材料を接着して作ろうと思いました。しかし、いかなる特殊な接着材を使っても、また、熱で接着しても、水あるいは油を入れて圧力をかけると接着部分がはがれてしまいます。あらゆる努力をしましたが、長時間の使用に耐えるものは作ることができませんでした。このような時にはどうするかと申しますと、何か既に実用になっているものを借りて使うことを考えます。それもあらゆるものをテストしてやっと見つけることができました。(ref.25)何を利用したと思いますか。考えてみてください。非常に耐久性のあるオイルバッグは見つけることができましたが、素子付きの長いチューブの先端にオイルバッグをつけるのですが、それもオイルを注入して圧力をかけてもオイルが漏れないように取り付けるのは大変でした。このオイルが圧力をかけても全く漏れないようにするには苦労しました。あるアイディアがひらめきました。それがどのような方法だったでしょうか。実は1982年前後から、日本のO社、A社、F社もオイルまたは水バルーンを用意しているようですが、写真を見てもその技術は低く、ディスポーザブルとして何とか解決しているようで、とても現在でも私ほどのアイディアはないように思えます。食道断層においても、オイルバルーンをつけたほうが解像度が増加するというのは、フェイズドアレイ、メカに関係ありません。ただしオイルにはキャスターオイルを使うことが必要です。

 

超音波リニア断層装置

 私が経食道断層の発表で少し名が知られた頃、ある学会で経食道断層の臨床例の発表をしたとき、福岡大学の教授の質問がありました。その教授の質問は「経食道断層なんて危険なことは全くする必要はない。何故なら、私はリニア超音波断層装置で胸から心臓診断をしているが、リニアでは心臓全体がみえるからだ。」というのです。私は「そんなことはありません。あなたが超音波診断の経験が少ないからそのようなことをいうのであって、胸壁から超音波診断の経験が深い人なら、その必要性は誰でもわかっています。従って、質問を撤回してください。質問する前にもっと超音波診断の基本を勉強してください。」と言ったら、その教授は再び立って、「久永先生がリニア断層装置の経験ないからそのようなことを言うのだ。リニアで検査したら自分の言うことがわかる。食道から検査をする必要はない。」と言うのです。私は仕方がないので「実はリニアを心臓診断に日本で最初に使用したのは私で、何年か前に米子で発表しています。ですから、すべてを知りつくして答えています。」と言ったら、その教授はばつの悪い顔をしていました。その時まだ胸壁のセクタースキャンは胸壁でも日本で34か所でしか使用されていないため、全く超音波の世界の進歩が解らなかったのでしょう。

 

外科学会総会での特別講演 

私は1981年(1980年だったかもしれません)の外科学会の総会の特別講演の講師に選ばれました。京都大学の教授が推薦してくれたのです。その総会は千葉大学の外科教授が発表会会長で千葉でありました。講師に依頼されて少し経つと、千葉大学の教授から電話があり、「どうか講演を辞退してくれ。」と言ってきました。特別公演は大学の教授かせめて助教授がするもので病院の先生クラスがするものではないというのです。私は返事を待ってもらって、推薦してくれた京大教授に電話しました。教授は「死んでも辞退するな。あなたも医師なら、医師や大学教授の世界がいかに汚いかを知っているでしょう。特別講演すれば箔が付くから、すべて教授間の貸し借りか、あるいは金の動きで講演者は決まります。」京大教授は翌年に定年で、「この汚い世界の最後にせめて本物の講演者をたとえ一回だけでも選んでおきたい。」と言うので、私は講演することにしました。講演はうまくゆき、特に16mm映画の映写は強い反応がありました。映画が終わったら座長が「まあまあかわいそうに、機械を買う金がないから自作なさったんでしょう。買った機械で検査すればよいのに。」と言うのです。私が「私は世界最初に経食道断層の機械を自分で開発し、自分で臨床応用したのです。売っているものを買って検査したのなら、全く研究ではないでしょう。あなたは私以外に本物の研究者を見たことが無いからそんなことを言うのでしょう。」と言うと同時に、外科の医師が理解できるように、今はほとんど使われない胸壁のM-mode検査を開発したHerzの手作りの機械をスライドで示し、「誰でも世界最初は自分で作るのだ。」と言ったら「そういう意味で言ったわけではない。」とばつの悪そうな顔で言っていました。

 

美しい心臓の超音波断層像

ここで非常に気障ですが、美しい超音波心臓断層像を紹介したいと思います。以下は全て40年以上前の超音波断層装置開発初期に私が撮影したものです。X-P CT  MRIPET等映像機器のすべてが開発初期と40年後では像の解像度に雲泥の差があるのに対し、超音波像は私の主観と言う人もいるでしょうが、現在の像より私の40年前の像の方がはるかに分解能が高く美しいのは不思議な事です。本当に信じられません。私が超音波の研究を続けていれば、このような悲しいことはなかったと思います。

 

No.1

Ref.1より、経胸壁心臓長軸断層像  31歳男性、正常例 

心内膜を含めて心臓全体が写っている。通常セクター走査は過去も現在も走査角度が90度以内で観測範囲が狭く心臓全体像は撮影できません。

 

No.2

Ref.4より経胸壁心臓長軸短軸断層像 26歳女性、正常例

長軸短軸ともに心臓全体像が写っている。左室の心内膜がイソギンチャク

用に見えます。

 

No.3

 経食道心臓水平断層像  僧房弁狭窄症の患者例 A:収縮期  B:拡張期

 Transesophageal cross-sectional echocardiograms in a patient with mitral stenosis.

The cross section is horizontal and shows the heart as viewed from the cardiac apex.   A : a frame during diastole and B : a frame during systole.   A stenotic mitral orifice(in A) is seen between the tips of the thickened mitral leaflets.   The interatrial septum (IAS) is seen without dropout.    AML= anterior mitral leaflet, ESO = esophagus,  IVS = interventricular septum, LA = left atrium, LV = left ventricle,  PML = posterior mitral leaflet, RA = right atrium, RV = right ventricle, TV = tricuspid valve.

 

No.4

経食道心臓垂直断層像  成人 正常例

 Transesophageal vertical linear scan through the pulmonary artery in a normal subject.  Bifurcation of pulmonary artery and part of ascending aorta are seen.      AO=aorta, PA=pulmonary artery , BI=bifurcation of pulmonary artery.      

 

No.5

経食道心臓水平断層像 

大動脈閉鎖不全及び僧房弁狭窄症の患者例  左及び右冠状動脈の明瞭な写真  

このように左右の冠動脈が美しく撮れるのは久永の装置だけです。

Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with both aortic regurgitation and mitral stenosis.  LCA = left coronary artery, RCA = right coronary artery.   

 

No.6

経食道心臓水平断層像  左房粘液種の患者例

Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with a left atrial myxoma.   Cross section is horizontal.   A stalk of the tumor is seen clearly.     K = stalk.  

摘出した腫瘍像

Extracted tumor.  Weight of the tumor was 38.5g.

 

No.7

心房中隔欠損症の患者例  D:欠損部位

Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with an ostium secundum atrial septal defect. Cross-section is horizontal. D=defect.  

 

日本心臓病学会栄誉賞

話は変わりますが、私は28年前の1991年にこの経食道超音波断層装置の開発と臨床応用の研究で、日本心臓病学会栄誉賞を受賞しました。心臓病学会は会員数一万人以上もいる日本のトップクラスの学会です。このクラスの学会の賞を開業医が受賞することは聞いたことがありません。私は例外でした。実は受賞の話があった時私自身がビックリしました。その時の理事長だったSa先生が推薦してくれたのは確実だと思いますが、私の知人が次のような全く嘘くさい噂を聞いてきました。「経食道超音波断層の研究をした久永がアメリカのかなり有名な賞の候補になっている噂が出たためその影響で日本心臓病学会が久永に賞を出した。」というのですが、私は素直に評価してくれたのだと思っています。Kb先生の話では賞決定は学会の理事会で理事長のSa先生が提案し、Ta先生が猛反対したそうです。そうしたら、三井記念病院の部長を長い期間していて、その後、大学教授になられた、町井潔先生が「完全に世界最初に経食道断層装置を開発し、臨床応用した久永先生は当然受賞すべきだ。」と反論し、受賞が決まったそうです。ただし、これはたんなる噂です。それにしても、授賞式のある学会は神戸でありましたが、、私の十一年ぶりの日本の学会出席でした。授賞式の前に学会の理事長のSa先生とその時の発表会会長のYo先生に会いました。発表会の会長のYo先生は後述のように、私が1980年AHAアメリカ心臓病学会の発表会の時に発表の部屋とスライドの出し方を教えたYo先生でした。私は受賞の記念に二人に贈り物をしようと思って私の本のコレクションからウィリアムモリスのケルムスコットプレスを二冊持っていきました。私が100年前に刷られた私家版のケルムスコットプレスの本を解説書とともに渡すと、さすがにSa先生はインテリだけあって「こういう古いものは素晴らしい。」と言ってくれました。ところが発表会の会長のYo先生の方は全くの無反応。モリスもケルムスコットプレスも全く知らないようでした。Sa理事長の本はケルムスコットプレスの中でも特に有名な「ジョンポールの夢」という本で「アダムが耕し、イブが紡いだ時、いったい誰がジェントルマンだったのか。」という挿絵が有名で、その当時でも入手不可能な本ですし、賞の賞金より高価なものでした。理事長先生の方はさすがにインテリ家族で、理事長の娘さんが、理事長が院長を務める病院の院長室を訪れたとき、ケルムスコットプレスを見て、「これは久永先生が私のために贈ってくれたのだ。」と言って持って行ってしまったそうです。その旨のお礼の手紙をいただきました。私は本を贈るとき、従業員に「ケルムスコットプレスを贈っても受け取った人がわかるだろうか。」と聞いたところ、「モリスを知らない人はいないだろう。」との意見でした。しかし、発表会の会長のYo先生は終始、不快な顔か難しい顔で無言で、私が賞をもらうことが面白くない様子でした。私はアメリカの学会の時に彼が困っているときに本当に親切に、そしてずいぶん時間をかけて助けたのに、せめてお愛想でもよいから、まともな態度をとって欲しかったと思います。後で、ある雑誌のミートザヒストリーという題の連載にYo先生の写真が載っていましたが、東北のMt先生相手の対談時の写真でしたが満面の笑みで、あのような顔もできるのだと感心しました。

 

この時学会理事長のSa先生から次のような話を聞きました。その当時外国の一流誌に載せるには外国の有名な学者に論文を見てもらって、英語を直してもらって推薦状がないと掲載不可能だと言われていました。Sa先生は私がアメリカのどのような先生に見てもらったかをアメリカの有名な学者に調べてもらったというのです。その結果、誰にも見てもらっていなかったことが分かって驚いたということです。私もその噂は知っていました。私が誰かに見てもらっているのが分かったら何をするつもりだったのか想像できます。アメリカが広いことはわかっています。だから、研究を妨害する人もいれば、助ける人もいます。

 

第七章 さまざまな事 Ⅰ

 数学と医学の研究

有名な数学者広中平祐先生の著書「学問の発見」を読むと、広中先生がつくづく優れた頭脳の持ち主で尊敬に値する人だと思います。また、彼が実際に会ったことのある数々の優れた数学者のことを天才と言っているのは、天才が天才と言うのだから、私には想像もつかないような優れた人たちなのでしょう。それは本当にうらやましいことです。ところが、医学特に超音波医学の医師に関しては、優れているというよりメーカーの業績を横取りするか、人の足を引っ張る人ばかり目立つのは本当に悲しいことです。まさに前述の榊先生のいう残りの9割の人が医師の研究者で、本当の研究者を妨害するために生きているようです。このような人々は研究のまねごとなどせず、ただ無能な医師として過ごせばよいと思いますが、何故研究の世界に顔を突っ込むのでしょう。不思議な事です。まさに数学の世界では才能のある人が数学の研究者になり医学の世界では才能がなく、好きな人があるいは好きでもない人も研究するのでしょう。

 

江橋節郎先生

昔の高名な生理学者江橋節郎は「外国の有名雑誌に投稿し、何度も内容を盗まれた。」と言って、原則日本発行の英文誌にしか投稿しないと言っていました。江橋氏は日本生理学会の英文誌の編集長をしているからそんなことが言えるのかもしれません。

 

宮川正澄先生

 名古屋大学の宮川正澄先生は無菌動物を作る研究をしていました。彼以前にスウェーデンの研究者が無菌の鶏を作るのに成功していました。鶏は人間と遺伝的にかなりかけはなれているため、哺乳類の無菌動物を作ることが望まれていました。すべての動物は無限に近いほどの多量の菌をもっているため、純粋の免疫の研究に支障をきたします。宮川先生はそのため、モルモットを無菌化することを試みました。そのため、モルモットの呼吸する空気の無菌化、モルモットの住む家の無菌化、モルモットの食料の無菌化等の基礎的な事から始め、長期間かけて無菌化したモルモットを育てることに成功しました。このモルモットを使って免疫学は非常に進歩しました。その後、彼の研究は外国のメーカーに受け継がれ、無菌化されたモルモット付きの無菌化モルモットの住居、空気、エサのセットが売り出されました。これは宮川先生に直接聞いた話ですが、「空気を無菌化したり、無菌の住居を作ったり、無菌の食料を作ったりすることは医師のすることではない。」と批判されたとのことです。もちろん批判したのは関東の大学の偉い先生です。「そのような開発は開発であって、研究ではない。」というのです。「~~の専門だから、自分のすることではない。」と批判する医師は人の研究に対する嫉妬でそのような発言をするのであり、最低の医師ですし、医学の進歩を妨害するものです。宮川先生はこの業績で文化功労者に選ばれました。

 

サプレッサーT細胞

今はもう亡くなられましたがサプレッサーT細胞の発見者と言われ、文化功労者にもなったTa氏はサプレッサーT細胞の発見についての原稿を作り、日本に講演にきていた世界的な免疫学者の泊まっているホテルを訪ね、自分の研究の原稿を見せたと自分で書いています。そうしたらその学者は「良い論文だから有名誌に載せてやるからある雑誌に投稿しなさい。」と言ったそうです。それでTa先生は投稿し、世界的に有名になったようです。こんなことは本人が書いているから本当のことなのでしょうが、私には信じられません。こんなことは決してしてはいけません。意味のある研究は必ず盗まれる恐れがあるからです。その業績で彼は千葉大学の教授となり、後に東京大学の教授になりました。千葉大学時代の後輩が書いていました。Ta氏は試験官の持ち方、器具の置き方、白衣のほんの少しのシミも病的に気にし、いつも叱っていたそうです。それで部下が故意に実験結果を逆に出したわけでもないでしょうが、後にサプレッサーT細胞の発見の根拠となる実験は複数の根拠がすべてでたらめで、しかも遺伝子的にそんなものが存在しないことが証明されました。私でしたら、部下がした実験結果が重大な発見につながると判断したなら、自分で複数回再実験してから発表しますが、こんなにいいかげんな実験を信用して、大発見として発表するとは信じられません。驚いたことに嘘だと証明されて以後に文化功労者に選ばれました。こんなことは信じたくないですが、本当の話です。Ta氏は実験結果を複数回自分で実験して確認するという基本も知りませんでした。もう一度書きます。研究が誤りだとわかってから文化功労者に選ばれました。学者の世界はいったいどうなっているのでしょうか。

 

American Heart Associationの学会発表とYs先生

 アメリカにAHAAmerican Heart Association)という学会があります。これは世界で最も権威のある学会の一つです。私はこの学会に1979(ref.10)1980(ref.20)に応募し、二回ともアクセプトされ、名誉ある発表をすることができました。この学会で発表できれば、アメリカ人でしたら、なにがしかの研究費を獲得することも容易になります。1979年の秋のAHAの発表の時はアクセプトされたのは日本人では私一人でしたが、1980年には私以外にYo先生の論文がアクセプトされて彼もアメリカの学会に来ていました。Yo先生は神戸の病院の部長で、後に大阪市立大学の教授に出世した先生です。それはよいのですが、学会の会場で私に話しかけてきました。その当時は学会の発表はスライドか8mm、16mmの映画の発表でしたが、「スライドの受付係がどこを探しても見つからず、わからないから教えて欲しい。」と言うのです。私は「そんなものはない。スライドは自分の発表するホールに行って、そこの映写係の足元に自分のスライドを置いてくれば良い。」と言ったら、ものすごく怒って、「これだけ立派な学会でそんなはずはない。なんでそんなでたらめを言うのだ。」と言いました。私は「アメリカでは、この学会だけでなくほとんどの学会にスライドの受付係などない。」と言いました。そのため、「自分でスライド係を探す。」と言って消えました。その後しばらくたって、また私を捜してやってきました。「いくら探してもスライド係が見つからない。」と言うので、「前に言ったように、あなたの発表するホールの映写係に渡せばよい。」と言ったら、「自分の発表のホールがわからない。」と言うのです。私はプログラムを見て、彼の発表するホールの名前を調べ、そのホールに案内しました。そして、「そこの映写係のところに行き、スライドの上にあなたの名前と発表番号を書いて映写係の足元に置いて、口頭でも名前と発表番号を映写係に伝えればよい。」と教えました。まことにこんな簡単なことが分からないなんて信じられませんし、よくそれで研究ができることだと思いました。

 

 1980年のAHAの学会では別のビックリする話がありました。1980年の学会中突然、名前は忘れましたがアメリカの偉い先生に話しかけられました。コーヒーを誘われました。その時の話では前年(1979年)までのAHAの学会では日本から学会の発表会に応募する人は少数で、ほとんど全員落選していました。しかし1980年に突然日本人の応募が500近くになる異変が起こりました。そしてその中で当選したのは前述のYo先生と私だけでした。実に日本人だけに限れば倍率250倍です。それで「何故このようなくだらない日本人の論文の応募が突然増えたのだ。」と質問してきました。私は「応募が急増した理由はわからない。」と答えました。昨年まではAHAの学会には簡単には通らないと思っていたのに私が通ったため、日本の大学の循環器の先生たちが、我も我もと信じられないほど多数応募し、ほとんど全員落ちたのでしょう。後で分かったことですが、AHAの学会には大学の教授、助教授でもほとんど発表したことがなく、誰もとても通らないと思っていたところに私が発表できたため、病院の医師でも通ることを知り、非常に多数の先生が応募したようです。しかもこれを切っ掛けに旧帝大クラスの大学では、アメリカの学会への応募の可不可を教授が握っていたのが私の発表を知り、許可なく勝手に応募するようになり教授の封建的な権力体制が崩れていったようです。その意味で私は大学の民主化にも貢献したと思っています。しかし、地方の大学ではいまだに古い封建体制が残っているようです。

 

私の研究の話に戻ります。複雑なので繰り返し書きますが、1977年の経食道断層装置(ref.3,ref.4)に続いて1978年にもファイバースコープ付の経胃壁超音波セクタースキャナー(超音波内視鏡)(ref.6,ref.7)を開発し、アメリカで発表するとともに1979年に世界超音波医学会(ref.13)でも発表しました。さらに1978年に経食道リニアスキャナーを開発(ref.6,ref.26)しアメリカと日本で発表しました。1979年にはさらに改造して分解能を増した経食道(ref.14,ref.16,ref.25)及び経胃壁(ref.15,ref.24)の超音波回転スキャナーを発表しました。また、1979年に経食道のパルスドップラという血流測定装置を世界的に有名なランセットに発表(ref.19)しました。経胃壁スキャナー、経食道スキャーとその臨床応用は1980年のアメリカンジャーナルオブカーディオロジー(ref.25)、サーキュレーション(ref.20)、アメリカンハートジャーナル(ref.26)、アメリカンジャーナルオブレントゲノロッジー(ref.24)という世界的に有名なアメリカの雑誌に載せることに成功しました。これで何とか経食道も経胃壁もプライオリティーが取れたと思いました。経食道心エコーは確実にプライオリティをとれたと断言できますが、経胃壁に関しては確実に2年以上後でありながら、自分が世界最初に研究したという人が出てきました。それは日本人が23組、アメリカが一組です。心エコーは確実にプライオリティをとれたと断言できるのに、経胃壁に関しては自分が研究したという変な人が出てくるのは、私が循環器の専門医師で経食道超音波装置の研究に関する論文は非常に多数発表しましたから完全にプライオリティをとれましたが、経胃壁装置はもっぱら消化器の検査、特に膵癌の検査に使われるため、循環器専門の医師である私には発表が経食道よりはるかに少なかったからだと思います。さすがに今では日本では経胃壁でも「自分が世界最初だ。」と言い続ける人はいなくなりました。しかし、アメリカ人の一人Dm氏は長く自分が世界最初の如く言っています。その表現が面白いのはアメリカ人の「Tj氏が、私が世界最初と言っているから私が世界最初です。」と。詳しく書きますと、私は1978年(ref.6,ref.7)と1979年(ref.11)に経胃壁装置をファイバースコープ付で発表していて、さらに1979年には経胃壁高速度回転スキャナーも発表(ref.24)しているのですが、Dm氏本人が1980年にランセットにGr氏に作らせた人間にはのますことのできない装置を犬にのませて雑誌に発表しました。私の発表より2年後です。しかも私は人間で検査しましたが、彼は人間には硬性部分を短くできなくて飲ませられないため、麻酔をかけた犬に行った検査を発表したのですが、誰も論文を読まないので、題を見て人間に行なったと勘違いしているようです。Dm氏が人間で経胃壁検査したのは私の4年後の1982年の事でした。一般に私のように循環器と消化器の両部門で発表するとそれぞれの部門の研究者にレベルの違いがあることが分かり、消化器の研究者の方がはるかに人間的なレベルが低いと思いました。このことが消化器には勘違いする研究者が多い理由だと思います。

 

巨大グループ

私がアメリカで発表した時、あるアメリカ人の偉い学者が話しかけてきました。私が無防備だと言っていました。アメリカは本当に広く、親切な人もいれば、危険な人もいます。それはアメリカのある医師のグループに関することで、それが最も危険だというのです。それに対抗するにはそのグループ外の権威ある学者の助けが必要だというのです。それはわかっていますが、私にはどうにもできません。そのグループはアメリカの人口の2.2%しかいませんがアメリカの医師の50%を占めていました。そのグループは私に限らずしばしば他の人の優れた研究を自分のものにするそうです。しかし、私にはどうすることもできません。犬で発表した人もそのグループの人でした。

 

隣国の留学生

私は1979年にある学会で経食道断層の発表をした時のことです。もちろん16mmの映画も上映しました。この時の聴衆の反応はものすごかったです。発表後、突然韓国人の医師が話しかけてきました。「私の発表のお蔭で自分の地位が随分上がった。」というのです。私が「私は日本人であなたは韓国人だから、全く関係ないだろう。」と言ったら、「アメリカ人は日本人と韓国人の区別などつけられない。今までアメリカの病院では主任教授がいて、教授がいて、助教授がいて、助手がいて、合衆国免許のナースがいて、州免許のナースがいて、ナース助手がいて掃除人がいて、アジア人の医師は掃除人以下だった。」というのです。それが私の発表、特に16mm映画を見て自分の地位が上がり、白人のドクターの自分に対する見方が変わってきたというのです。私が「そんなに大変ならアメリカなどに来なくて韓国で医師をすればよいのに。」と言ったら、彼はソウル大学を出ているのだそうですが、「ソウル大学を出ても、韓国ではコネがない限り、病院に全く就職できない。」のだそうです。それでやむを得ず、アメリカに来ざるを得ないとのことでした。信じられない話でした。彼の話では私の経食道の心臓超音波断層の16mm映画はアメリカの白人の心臓医に完全にショックを与えたとのことでした。

 

英語の質問

 アメリカでの学会発表は日本よりはるかに厳しいです。同じテーマで研究している人が聞いていれば、「あなたの研究は間違っている。」などという質問もざらです。そのため、私も発表の後どんなシビアな質問があるかと最初は心配でした。しかし、全く挑戦的な質問はなく逆に驚きました。アメリカに長期留学したYs先生によると自分がしていない新しいことに関してはシビアな質問はないという話でした。その代り、日本と異なり質問と言っても質問でなく自己宣伝ばかりしていて、それを聞くのが極めて苦痛です。どこから私に対する本当の質問になるか真剣に聞かないとわからないからです。そのため随分疲れます。アメリカの学会の発表直後、東大を出た先生から話しかけられ、「多数の質問に対してあのようにすぐ答える日本人は見たことが無い。」と言って、私の英語力を高く評価してくれました。実はこれにはわけがあります。長い質問に疲れていいかげんに聞いているとどこから本当の私に対する質問か分かりづらく、かといって真剣に聞いていれば疲れます。アメリカの学会ではすべての学会で発表直前と直後には座長が発表者の隣に立ち、紹介してくれます。その時に「私は英語が得意ではない。発表が終わって質問があったら、意味が解らないと答えられない。質問があったら短い文に翻訳して教えて下さい。できれば単語で翻訳して教えて欲しい。」と言ったら、全員「オー、イエス」と言って質問の意味を教えてくれました。これで質問者が何度質問してもすぐ答えられ、私が英語の名人と日本人には見えたようです。

 

第八章 研究と妨害

研究と妨害

私が経験したもっとも悪質な妨害はミネソタにある有名病院の医師の妨害でした。私は経食道の断層装置の開発と臨床応用を1977年に世界最初に行ない(ref.3)、1977年にアメリカの超音波医学会で発表し、翌1978年にUltrasound in Medicine Vol.4(ref.4)12ページの英文の論文を載せることに成功しました。これで最低限のプライオリティーは取れたと思いましたが、学問の世界の研究泥棒の多さは百も承知しており、早急に超有名誌に載せる必要があり、特にアメリカの有名雑誌に載せる必要がありました。しかし、食道断層の装置もまだ改良する必要もあり、臨床応用の症例も増やす必要がありました。何とかAmerican Heart Journal(アメハ)に19793月に投稿しました。これは19796月にアクセプトされ、10月に印刷されることになりました。ところが、その年の秋にメーヨークリニックのDe××××aがそれまでのバーチに変わって編集長になりました。わたしは「これはいかん。」と思いました。案の定10月に私の論文は印刷されず、私はアメハに手紙をだし、抗議しました。;何の返事も来ません。仕方なく前編集長のバーチに手紙を出しました。バーチからの返事は来ましたが、「何故印刷が遅れているかわからない。」とのことでした。時間はどんどん過ぎ、1980(ref.26)になってしまいました。それでも私の論文は発行されません。

 

仕方なく、私は大急ぎで新しく開発した経食道回転スキャナーの論文をAmerican Journal of Cardiology(アメカ)に投稿しました。前述の如くKb先生が心内心音の論文を投稿したら「Nothing new in your paper,you had better submit to other journals.」という返事をしてきた雑誌です。通常、論文の掲載を拒否するときはよくかけているが、載せる余裕がないとかなんとか返事してくるのですが、このような返事をする編集長なら私の論文を載せてくれると思ったからです。それでアメカに投稿するとすぐアクセプトされ、198011月号にアメカに回転スキャナーが、アメハにアクセプトから15か月後にセクター及びリニアスキャナーが掲載されたのです。アメハの私の論文掲載の妨害をした編集長De××××aはアメカの11月号に経食道の論文が掲載されることを知って、妨害しても意味がなくなると思い同じ11月にアメハに載せたのでしょう。これで私が二重投稿したように見せて私を困らせるつもりだったのは明らかですが、二つは全く異なる論文でした。

 

建築現場での高所からの人の落下事故あるいは交通事故等でしばしば脊髄障害を起こし、首から下の下半身麻痺が起こります。これらの事故に対して今まで全く治療法はなく一生寝たきりか、車いすでの生活となっていました。2019年初め厚生労働省は上記の脊髄障害の治療として、患者の骨髄から間葉性幹細胞を取り出し、培養してそれを静脈に点滴する治療を札幌医科大学に健康保険治療として許可しました。首から下の麻痺の患者15人にこの治療を行なったところ、14人に効果があったそうです。このニュースの結果、世界で最も有名は研究雑誌ネイチャー(Nature)が10人委員会を作り、「ダブルブラインドでない」「たった15人の治療結果のみ」で「厚労省が健康保険治療を許可するのは誤りで、危険である」と決議、その旨Natureに載せました。また、「間葉性幹細胞は肺血管を通過できず、破壊され効果があるはずがない」と宣言もしました。もちろん、間葉性幹細胞は肺毛細血管で破壊されないという論文は多数あります。これは明らかに白人の嫉妬と妨害です。人が指を切断という事故後指が生えてきたという報告が十数例ありますが、私はこれらも幹細胞がかかわっていると見ています。将来、幹細胞の点滴で指が生えてくる時代が来るかもしれません。

 

研究妨害にもいろいろな方法があります。次のような全く当てにならない話を聞きました。アメリカ超音波医学会は毎年の発表会に応募して通れば、学会で発表できるのみならず、1977年まではUltrasound in Medicineという本をProceedingsとして発行してくれ、論文を載せることができました。といってもいつも大した発表はないのですが。自分で言うのもなんですが、1977年の私の経食道断層の発表は本当に魅力的でした。その経食道断層の論文が19801Ultrasound in Medicine Vol.412ページの論文(ref.4)として出版されたことは前述のとおりです。このVol.4も私の論文以外は新しいものは何もありませんでした。ここからがあてにならない話です。これは後でアメリカの学会に出席した時にアメリカのある研究者から聞いた話です。私がアメリカ超音波医学会で経食道超音波心臓断層を発表して、Ultrasound in MedicineVol.412ページの論文(ref.4)を載せたため、1回だけの論文ではまだ症例も少なく、学会の発表の付属でUltrasound in Medicineの発行を止めれば、再び経食道の論文が出版されることなく、私の経食道断層のプライオリティを妨害でき、そのために以後の学会での出版を中止したのだそうです。本当かどうか、わかりませんが、アメリカ超音波医学会のexecutive boardにグラ×××クがいることから、ありそうな話だと思いました。実際Ultrasound in MedicineVol.4で終わり、翌年から出版されなくなりました。

 

日本での研究妨害

発表妨害は日本にもあります。名古屋大学のKb助教授のところの若い人が日本のJapanese Circulation Journal(現在のCirculation journal)に投稿したら、2年間も、rejectともacceptとも全く返事なく、完全な無視でKb先生が抗議しても無視されたそうです。同じ論文を二か所に投稿できないですから、他誌に投稿することもできず、全く困ってしまいました。日本人もこのように悪質なのです。さらにKb先生は世界で一番か二番目に胸壁の心臓高速断層を発表したのですが、症例が多数集まったため、心臓超音波断層の本を出版しようと思いました。東京の医学書出版社に行き、ある出版社から出版の承諾を得ました。原稿を準備していると、その出版社から申し訳ないが、出版できないと連絡がありました。理由を聞くと東京の偉い先生が出版するなとの指示があったためでした。その出版社は同情して、京都の出版社を紹介してくれました。それが京都の金芳堂という出版社から1980年に出版された「心臓の超音波断層法入門」(ref.32)と言う本です。これはKb先生から直接聞いた話です。この本は確認してはいませんが、世界最初に出版された心臓断層について書かれた本だと思います。この本(ref.32)の冒頭には私が撮影した大きな経食道心臓断層写真が載っています。

 

プライバシー

これは妨害と言えるかどうかわかりませんが、私の三菱病院時代の話です。病院に名古屋大学の6年生が研修に来ていました。学生のための机がなく、研修生は自分のバッグを図書室の机の上に置いていました。私がいつもの如く、図書室で論文を読んでいるとNh大学を出た若い医師が入ってきて、私の前で研修生のバッグを開けて中のものを取り出し、何が入っているか調べ始めました。私は驚いて「そんなことはプライバシーの侵害だからやめろ。」と言いました。しかし、その若い医師は見るだけで盗むわけではないと言って悠々と調べ続けて、ついにコンタクトレンズが入っている透明な箱まで取り出して、それを開けて、汚い手でレンズを直接持ち見ています。私が再度注意してもやめません。私立大学出身の医師でしたが、このような人たちは異常に他人のプライバシーに興味を持ち、それも隠れてではなく、堂々と他人の私物を調査します。この話を友人の医師に言ったら、田舎の病院では若い医師が集団で、先輩の医師、後輩の医師の私物を無断で調べるとの話です。三菱電機や運輸省ではそんなことは全くありませんでした。医師の世界と言うより、程度の低い世界は本当に恐ろしいです。

 

第九章 さまざまな事 Ⅱ

O社の経胃壁超音波スキャナー

話は重複しますが、私は前述のようにこれらの経食道の装置の開発と臨床応用のみならず、別の検査方法、経胃壁超音波スキャナーの研究(ref.6,ref.7,ref.11,ref.15,ref.24)もしました。私が最初に経食道を発表してから3年たった頃O社とA社が共同して経胃壁の装置を開発しました。O社は最初にその装置をドイツに持って行って、ドイツ人に発表させました。この装置はO社の技術が低く、速度も1秒に4コマ程度で心臓用には使えませんでした。使えたとしても私の装置に比べたら、まことに分解能が低く、とても私の像と比較できるものではありませんでした。後でO社が発表していますが、O社が作ったものをテストしていた北の方の大学の先生Fu氏は私の発表をよく知っており、O社の試作機に「これではだめだ。」と言ったそうです。後で発表されたO社の設計図を見るとO社の作った「試作機は超音波の反射板を扇形走査したもので久永氏とは似ても似つかないものになった。」と書いてありました。

 

この超音波の反射法は前述したように、私が経食道パルスドップラーの設計に手間取りやむを得ずATL社のトランスデューサ―を飲み込むため反射法を使ったのであって、その後すぐに反射板のない経食道パルスドップラー素子を製作し発表しました。これはあくまでも推測ですが、反射法の論文を見たO社の上司が設計者に反射法を使えば私のまねではないと思い、反射法を使えと部下に命令したのでしょう。あるいは素子を扇形操作または回転すると同軸ケーブルまで走査しなければならなくて、それを解決するためには複雑な整流子を加えなければならず、やむを得ず反射法を用いたのでしょう。全く笑える話です。個人で作った私の方がより複雑なものを作るとは情けないメーカーです。1984Fu氏の論文(ref.44)にO社の初期の反射式の経胃壁断層装置の設計図の仕様がのっていますが、一秒で4コマ撮影できる装置で一秒4コマなら心臓にはまったく使えませんが、コマ数をあげると振動で画像が揺れてしまうのでしょう。速度が遅いため、理論的には非常に明瞭になるはずですが、実際は本当に哀れな分解能の像を出していました。反射法がダメなことは明白なのに全く無駄なことです。私がパルスドップラーで反射法を使ったのは苦肉の策で、O社とその設計者を哀れに思いました。そしてこの装置をドイツに持っていきました。

 

最初にドイツに持って行ったので西日本の消化器の権威のTt教授が烈火のごとく怒りました。ドイツに少し遅れて、札幌医大の教授Fu氏が手に入れ、1980年の末に日本超音波医学会で発表しました。(ref.35) 私もその時経胃壁の発表をしました。(ref.27) 札幌医大の教授のすぐ後の発表でした。私は既に外国と日本で経胃壁の発表を何度もしていましたが(ref.6,ref.7,ref.11,ref.13,ref.15)、その時の私の発表は、経胃壁の検査は経食道による心臓の検査に比べて胃壁に大きなしわfold(しわ)があるため、素子と胃壁の音響学的コンタクトが悪く像が不安定でした。そのため、水を大量に飲ませて胃に水をためて検査をして素子と胃壁の間に水が入れば音響学的なコンタクトが向上し、解像度が増すと考えました。そしてこれを胃内脱気水充満法と名付けてその時発表しました。しかし、もともと「胃カメラ検査では水を断って検査しなければ危険」というのがそれまでの定説でした。それでまず自分が300ml以上の水を飲んで検査したら全くよく見えるようになり、また水を飲んでも何の危険もなく、それを発表しました。すると、その札幌医大のFu氏が「そんな危険なことを絶対にすべきでない。胃カメラの検査は検査前に長時間水を飲ませないでしないと危険だというのは常識だ。」と猛反対しました。座長はイタリアの学会発表で私が通訳したIt教授でしたが、その座長が質問者のFu氏を壇上にあげました。そこで私を激しく非難しました。O社は反射法は止めて、1~2年後に反射法でない装置を開発し、その時からFu氏を含めて複数の学者が胃内脱気水充満法で検査し、発表をしました。そのFu氏が4年後英語論文(ref.44)で、水を飲んで検査するという題をつけて、あたかも自分が最初に開発したかの如く発表したのには本当に驚きました。自分が反対した時に彼の研究室の部下が多数聞いていたと思います。にもかかわらず、それを自分が開発したように発表するとは学者には恥というものをまったく知らない人がいるようです。(詳細はref.44を見てください。)

 

外国人の客

私の数々の研究発表の影響か、数多くの外国人のグループがわざわざ三菱病院にきて装置と検査を見ていきました。私は病人の検査を直接見せたかったのですが、来た外国人は日本の医師免許はなくプライバシーの問題もありそういうわけにもいかず,私のwifeか若い先生を呼んで被験者になってもらい、外国人に自分の手で正常例を検査してもらいました。最初に来た外国人には三内のKb先生に頼んで高級料亭で食事会を開きましたが、外国人がどんどん来るので金がかかって仕方がなく、接待はやめました。日本人で来た人を紹介しますと、メーカーでは一番何度も来たのは日立です。日立の人は日立メディコの重役まで連れてきました。実際の検査も見てゆきました。O社は驚いたことに信じられない話ですが、電話もなく、何のアポも取らずに突然二人でやってきました。突然で、見せる被験者は用意できず、検査は見せませんでした。個人では大阪大学の講師であった松本正幸先生(後の金沢医科大学教授)だけが予約してきました。松本先生は予約してくれましたから人間の被験者を用意して待っていました。実際に彼に食道断層のチューブを持って検査していただきました。フレキシブルチューブを入れたり出したりして、その時の心臓像の変化を見て「やっぱり嘘ではないのか。」とつぶやいたのをよく覚えています。

 

私の研究は外国人まで見に来たため、院内で評判になり院長まで被験者になって研究に協力してくれました。私は学会で松本先生が来院して自分で検査していき、「やっぱり嘘ではないのか。」と言ったことを何度も得意になって言いました。

 

座長の発言

前述のように最初のアメリカ超音波医学界での発表では妨害されましたが、最初のアメリカ心臓病学会(AHA)の発表では、スライド上映と16mm映画の上映の後、座長が、”Congratulations. You are the first researcher to develop transesophageal cross-sectional echo in the world.” つまり「おめでとう、あなたは最初に経食道断層エコーを開発した研究者だ。」と言ってくれました。アメリカでの発表の時、私の発表は他の人の発表の時と少し異なることに気づきました。前述のように、最前列の席の前と通路にお尻を床に着けて、座って聞く人がいることと、発表時、チャチャと言う音がするのです。最初その音が何かわかりませんでした。また、16mm映写時にはジーと言う音が聞こえます。後でわかりましたが、チャチャの音は私がスライドを変えるごとに多数の人が自分のカメラでスライド画面を撮っている音、また、ジーという音は16mmの映写画面を8mmカメラで撮影している音でした。撮った写真と8mmは大学に戻ってから、それを見て勉強しているとの話しです。日本で経験したことはなく、いかにアメリカ人が勉強家かよくわかります。

 

日本の学会での「シラケ」

当時、日本の学会では私の経胸壁も経食道も16mm映画があまりにすごかったので心臓超音波検査の発表の会場では全く白けていました。それは他の発表があまりに程度が低いとしか考えられません。私の研究の発表は単に発表の内容のみならず、それまで医学の研究発表はメーカーが新しい診断治療の機械を開発すると、それを医師が、自分が開発したように嘘を言って発表するのが通常でしたが、メーカーが私の発表をきっかけにそれをほとんど行わなくなりました。私がメーカーが開発したものを医師が開発したと発表するのを少しからかって質問し、質問された医師は自分が開発したというのに全く開発した機械のことを知らないため、答えられないことも原因だったでしょうし、メーカーも医師に機械を渡してその機械を借りた医師が自分で開発したように発表することが心から嫌になったのでしょう。

 

第十章    色々な医師と検査

若い医師

私がいた三菱名古屋病院へ医学部卒業後5年たった二人の医師が赴任してきました。二人は私の一年後輩の医師でした。二人とも名古屋大学の卒業生ですが、この年の卒業生は東京大学の入試がなかった年の入学のため、入試があったなら東京大学に行ったという勘違いのプライドがあり、極端なエリート意識を持っていました。一人は男性で、もう一人は女性でした。特に女性は旭ヶ丘高校で成績トップであったとの噂がありました。この二人が超音波検査を自分で検査すると、検査途中で操作が解らなくなり、私を呼ぶのです。外来をしていても偉そうに呼ぶのです。私は参ってしまい、操作を教えるから、頼むから呼ばないでくれと言っても、いつも呼びます。いくら詳しく教えても、暗記できそうもないので教えられたことをノートに取ってくれと言っても全くとりません。長時間の説明の後もなおかつ操作が解らなくなると私を呼ぶのです。私はこの時ほど参ったことはありません。頭はよくないのに自分が優れていて後輩なのに先輩の私に命令し、それが二人ですから大変なのです。何故こんなに操作が分からないのかと言うと、機械の原理が分かっていなくて、いろいろな名前のツマミが多数あるため、どのツマミを操作してよいのかわからないのでしょう。私はこのようなタイプの頭の悪い人に対応したのは初めてでしたので本当に困りました。そのうちの一人の先生が、私を呼び出して大発見したというのです。私がどうしたのかというと、大きなビーカーに水をいれて、その中に私が文鎮に使っていた直径8cmの円形で厚さ約2cmの真鍮製の板が入れてありました。そのビーカーの中に超音波のトランスデューサー(素子)を入れて、厚さを見たら1cm以下でブラウン管に表示されました。「根本的な間違いを日本のメーカーも先生も犯している。」というのです。本人は大発見だと言っていました。私はあまりの愚かしさに驚いて、「全くそんなことはない。ブラウン管のスケールは正しく目盛られている。」といったら、私に真鍮板と表示を見せてこんな証拠があるのに何故認めないのだ。」と言いました。私は「全く誤っていない。どうして真鍮の厚さが少なく表示されるのか易しい事だから自分で考えてください。」と言うと、「マタマタ―、私が大発見したから悔しくてそういって誤魔化す。」というのです。私はこれほど医師の頭が悪いのに驚いたことはありません。読者も何故真鍮板の厚さが半分以下の厚さに表示されたのか考えてみてください。非常に簡単な理由です。考えていただけたでしょうか。普通一秒でわかることです。それは真鍮の中での超音波の伝播速度が生体あるいは水より約2倍の速さだからです。こんなことが分からなくて、「どうして検査をするのだろう。」と思いました。超音波が解らないのなら、CT、MRI、PET等の原理は全く分からないのだろうと思います。

 

若い先生と出勤拒否

このYa先生が担当した入院患者に心房細動かつ心不全の患者がいました。一般に心房細動の患者は血栓が起こりやすく、その血栓が脳に飛ぶと脳梗塞を起こしてしまいます。その脳梗塞を防ぐために当時はワーファリンというネコイラズを改良した血がとまりにくくなる薬を処方しました。この薬の適量は一錠~九錠と非常に個人差が大きく、また、異様に持続時間が長く、使用するのに難しい薬です。そのため、ワーファリンを処方するときは出血時間、凝固時間、トロンボテストを頻繁に行い、また、体に紫色の皮下出血、歯肉の出血があるかどうか注意して処方します。このYa先生はワーファリンを処方した心房細動の患者の皮下出血と歯肉の出血をナースに報告されても何もしませんでした。ナースは危険を感じてやむを得ず部長に報告しました。部長はYa先生にすぐワーファリンの内服をすべて中止するように命令しました。ところが、Ya先生は処方を一日6錠から1日4錠に減量しただけで、出血はますますひどくなりました。再度ナースから報告を受けて、部長はYa先生を呼びつけ、ナースの前で「何故直ちにワーファリンを中止しないのだ。」と大声で叱りつけました。そうしたらYa先生はあくる日から病院に出勤しなくなりました。前の部長のYs先生は以前私にあることを注意した時、すぐに注意したことを私に謝りました。私が「何故そんなことを謝るのか。」と言ったら、「君の先輩医師も以前注意したら、病院に来なくなって本当に困った。それで、君が病院に来なくなったら困るからだ。」と言いました。私は「私は身体が動く限り、来なくなるなどと言うことはありえないです。」と言ったら、安心していました。話を戻すと、Ya先生はワーファリンで叱られ、数日たっても出勤してきません。部長は私に「彼が何とか出勤するよう私が工作するように。」と言いました。その時、私に南米勤務の三菱重工の派遣社員の健康診断のための出張の話がありました。アメリカかヨーロッパなら部長が出張するといっていましたが、南米のため部長は興味を示さず、私に押し付けたのかもしれません。私は外国出張に行きたくないし、Ya先生は他の職員の手前病院に出勤拒否し続けています。そこで三菱重工の名古屋航空機製作所の外国出張の担当者と交渉し、南米だけでなく、アメリカのニューヨークとマイアミに寄り、遊ぶことができるように変更し、南米ではイグアスの滝を見物できるようにしました。それで、Ya先生に「直接出張すれば、病院には長期に来なくても済み、出張後、病院に何くわぬ顔で勤務すればよい。」と伝えたら、「それなら。」と言って外国出張の話に乗ってきました。全く至れり尽くせりです。彼が出張に行ってから、ニューヨークとマイアミにも行くということが部長にばれて「それなら、俺が行くのに。」と言って叱られました。私は「そのようにしなかったら、彼は出てこなかっただろう。」と弁解しました。一般のサラリーマンでしたら、出て来なくなったら、それで終わりです。三菱電機でもすべてそうでした。しかし、医師の世界はそのように逃げても、その後、何食わぬ顔で勤務できるのが不思議です。むしろ医師だからこそ余計に元に戻りにくいと思うのですが、実に異常に甘い世界です。

 

医師と心電図

医学の重要な検査に心電図と言う検査があります。ほとんどの人が少なくとも一回は、心電図検査を受けたことがあると思います。100年以上前からある検査で、アイントーベンという人が心電図検査でノーベル賞を受賞しています。ところで、この心電図検査を多くの医師が理解していません。あまりにも理解している医師が少ないため、私は何故だろうと真剣に考えてみました。理由は我々の祖先が電気を記録した曲線を見てこなかったためです。我々の回りには物が存在し、その物に名前を付けて言語表現をしています。心臓も肺も物の一種で、それは解剖して見ることができます。心臓は見えても、そこから出る電気は全く見ることはできません。一般に多くの人は物として見えるもの以外に理解することはできません。心電図の電気は見ることができませんが、それの強さの時間的変化をグラフで記録することはできます。それが心電図です。心筋梗塞が起きたら心臓の動きに異常が起こり、それが心臓が出す電気がどのような異常をきたすかと言うことを基本に考えれば問題はないですが、そのように考えるには電気を理解する頭と電気の知識が必要です。ほとんどの医師に電気を理解する能力はありません。それで心電図の波形に名前を付けて、その名前の波形があれば何病と診断します。このような考え方が危険だと医師は知りません。例えば、ある波形にQ波と言う名前を付けて、これがあれば心筋梗塞だと診断します。つまり絵合わせで診断します。見本の絵とどのくらい似ていたら病気と診断できるのでしょうか。心電図による病気診断の定義以前に、心電図の物理的意味を理解して、それで診断すればよいのですが、単純化した波形に名前をつけて診断することは誤診のもとになることを多くの医師がわかりません。悲しいことです。

 

三菱病院に循環器の勉強のために卒業後4~5年の医師が赴任してきました。三菱病院では、病院で検査したすべての心電図を循環器の医師が診て、所見を書き、診断して主治医に戻すという体制をとっていました。三菱病院では外来、病棟、健診を含めて一日60~70人の患者の心電図をとっていましたが、私も新米の時からすべての病院の心電図を見て、所見と診断をつけていました。最初一年は判断の困難な心電図に関しては先輩の助言を受けました。7年間ずっと私一人で行ないましたが、その間に診た心電図は10万枚を超えると思います。後輩が赴任したため私はその仕事を新人に委託し、部長がもし判断の難しい心電図があったら、先輩の三人のうちの誰かに相談するように言いました。新人に心電図の判断を任せてから1~2か月経過した時、内科の副院長から循環器部長にクレームがきました。副院長は「新人の心電図の診断が完全におかしい。老人の副院長がおかしいと思うことは見逃せない。」と言うのです。そして、「新人の心電図の診断を止めさせよ。」との意見が副院長から出ました。部長が新人にわからない心電図があったら先輩に相談するように命令しました。それから一か月たった頃、外科からも「心電図の診断が明らかにおかしい。」と言うクレームが出ました。そのためやむを得ず、再び心電図の判断は半分以上私がするようになりましたが、新人はいつまでたってもまともに心電図を診ることができませんでした。一般に心電図に関しては多くの循環器の専門家でもまともに診断できる人はほとんどいません。私自身、三菱病院の先輩以外に心電図をまともに診断できる医師にはほんの数人しか会ったことがありません。それはなぜかというと、ほとんどの循環器専門の医師も自分の患者の心電図を診るのみですから、一生にせいぜい2~3000枚の心電図を診るみで、私のように十万枚もの心電図を見ていないからだと思います。現在、心電図はコンピュータの画面に小さく表示されるのみであるため、ますます多くの医師が、心電図の判断ができなくなってきています。

 

消化管穿孔と胃カメラ検査

私のいた三菱名古屋病院内科に名古屋大学卒ではない医師が赴任してきました。この先生はユニークな方でした。前に述べたように、消化管の穿孔(たとえば胃の穿孔)の場合は胃カメラ検査が禁忌です。胃カメラ検査をすると、この検査は胃に空気を送り込んで胃を膨らませないと検査できないのですが、もし胃に穴が開いている場合空気を送り込むと、空気と一緒に穴から胃液が出ます。胃液は塩酸がありまた黴菌だらけの汚い液です。これが胃の外に出ると急性腹膜炎を起こして死にます。その先生は消化器専門でしたが、あるとき腹痛の患者を外来で診て入院させ、腹痛が激しいので外科に手術をしてくれと頼みました。外科は診断がついていないので診断をつけてから相談しろと言いました。それで、その先生は自分で胃カメラ検査をしてしまいました。その結果急性腹膜炎を起こして、その患者は死亡しました。胃の穿孔を疑ったら、先に述べたように胃カメラは禁忌です。穿孔を疑った時は立位または座位で腹部X-Pを撮り、気腹像(横隔膜の下の空気像)を調べます。仮にそれは若い医師だから仕方がないとしても(仕方がないことはありません。)二か月と置かず腹痛があって胃穿孔の別の患者に立位の腹部X-Pの検査をせずに、胃カメラ検査を行い、再び不幸な結果になりました。二回も連続というのはきいたこともありません。この先生は他にも重症患者が入院してよくならず、ナースが心配して、この先生に圧力をかけると、すぐにその日のうちに退院させてしまいました。そうしたら、その日のうちに死亡したため、患者家族に呼ばれて往診して複雑な顔で戻ってきたそうです。そのようなことがなんと二か月の間に二度ありました。世の中には驚くべき医師がいます。私がビックリしているのは頭の悪い医師なら、一度くらいそのようなことがあるかもしれませんが短時間で二度起こるとは信じられません。私はその医師に試しに「こんなことが起こってどんなお気持ちですか。」と聞いてみました。そうしたら、「開業医の父がいうのに、医師が患者の命を助けられるというのは思い上がりだ。人の生死は全て本人の運命で、医師のやることに関係ないと教えられている。」との話でした。開いた口がふさがりませんでした。

 

尊敬すべき上司

おかしな先生ばかりでなく優れた先生も多数います。私が三菱名古屋病院に就職した理由は内科循環器専攻のYs先生がいたからです。Ys先生には医師の基本、内科一般、専門の循環器病のすべてに基礎の基礎から詳しく教わりました。人間性の優れた先生でした。最初就職した時、まず言われたことは患者を治さなくても良いから、殺すなと言われました。彼のいる病院に就職した私は本当にラッキーでした。彼は「後輩に臨床医学を教えるのは自分の義務だ。」と言っていました。彼には循環器のみならず、あらゆることを教えていただきました。たとえば、医師になって2年目で重症の肺炎に各種の抗生物質を使っても良くならず困っていました。喀痰から培養した菌にどの薬が効くかをテストしても、効く抗生物質、抗菌剤がみつかりません。その時、彼は「ストレプトマイシンを使え。」とアドバイスしてくれました。「ストマイは抗酸菌つまり結核の薬だ。」と反論したら、彼の経験で同じように治らない肺炎で困っているとき、先輩からアドバイスを受けてストマイを使ったら、効果があったと話してくれました。それでストマイを使用したら、40度の熱が絶壁の如く下がりました。

 

新米の女医

話が変わりますが、時代が変わったのか、私が医師になって四年たった時女性の新卒の研修医が来ました。私が研修医の時は先輩が主治医の患者をその先生の指導のもと診させてもらい、先生が教えてくれる検査をして教えてもらった薬を処方してきました。ところが、そのYs先生が女性の研修医に対して患者の薬を指定して処方するように言ったら、なんとその先生は「半分でも責任を持って下さったらそうしますけど。」と答えました。温厚なYs先生の顔色が変わりました。私はそれを見て、「これはいかん。」と図書室に逃げました。そうしたら、すぐにYs先生も図書室にやって来て、「聞いたかね。」と私に聞きました。私は「聞きました。」と答えました。そうしたら先生は「僕の気持ちは到底わからないだろう。」というので「よくわかります。」といったら、「どうして。」と聞きました。私は次のような私の経験を話しました。それは私が血管確保が困難な老人患者にカットダウンという簡単なopで血管にカテーテルを入れる方法を教えた時、処置が終わった時に私は消毒が足りないと思い、彼女に「もう一度消毒をし直せ。」と指導したら、「これでいい。」と言って再消毒を拒否しました。その話を聞いたYs先生は「君がそれを放っておくはずがないだろう。その時君はどうしたんだ。」と聞いてきました。私は「ナースステーションに戻って、彼女がそこから消えるまで待っていました。その後、ナースに消毒セットを用意してもらい、患者のところに行って消毒しなおしました。」と言ったところ、Ys先生は「僕はそんなことはできない。だから、主治医を変わって君が彼女を指導してくれ。」と言うと同時に彼は二度と彼女と口をききませんでした。それどころか、驚いたことにあくる年に来た研修医に対しても一切何も教えなくなったのでした。彼は「後輩に臨床医学を教えるのは自分の義務だ。」と言っていたのです。病院の経験深い先生方と話すと、「若い人が全く言うことを聞かない。それどころか勝手にとんでもないことをする。」と言って嘆いていました。

 

冠状動脈造影と事故

三菱名古屋病院が冠状動脈造影カテーテル検査をしているということは前述しましたが、カテーテルはYs先生が材料をアメリカから持ち帰って来て、それを私がX-Pを見ながら完全にオーダーメードで手作りしていましたが、後輩も検査をするようになり、Ys先生の言う先輩と私の完璧なペアだけの検査ではなく、後輩や大学から検査を勉強しにくる先生たちのためにも私がカテーテルを作っていました。カテーテル作成は最低56時間かかり、私も後輩に教えて、カテーテルつくりから卒業しようと思いました。後輩は全くふざけていて、いいかげんにしか作りません。それで部長は後輩の作ったものは危険だから大学の先生のものもすべて私に作ってくれと言われました。病院勤務7年目だったと思いますが、アメリカ製のカテーテルが厚生省の許可が下り、売り出されました。事務は私の作ったカテーテルを一本10万円近くで保険請求していたみたいですが、市販品が無い時はそれが許されますが、市販されるようになったのに手作りでは許されません。市販のカテーテルを調べたところ三つの重大な欠点がありました。一つ目はカテーテルが柔らかすぎて、つまりコシがないため挿入に時間がかかり危険、二つ目は先端の形が太過ぎ冠動脈の入り口をふさぐ可能性があって危険、三つ目はオーダーメードでないためサイズが飛び飛びで挿入困難。それまで私は何百例もやり、何の事故もありませんでした。もちろんそのカテーテルの危険性は上司、同僚に言いましたがどうすることもできません。この検査は当時アメリカでは250回に一回死亡事故がありました。私は事故ゼロが自慢でしたが、それも単なる運だったのかもしれません。その時ちょうど検査中のポリグラフによるECGや血圧のモニター担当の検査技師がやめたため、私はモニターを担当しコロナリーカテ―テル検査を辞めることを上司に申し出ました。けんか寸前になりましたが、何とか了解してもらいました。私が検査を辞めて34か月後死亡事故が起こりました。それは上司が主治医の患者でした。私が外来の日にそれは起こりました。主治医は無断で別の病院にアルバイトに行って院内に不在でした。その患者は大学からの依頼でトヨタ自動車の社員で三十五、六歳だったと思います。しかもサッカーかラグビーの選手とのことでした。そんな人の検査依頼を何故大学がしたのか全くわかりません。検査は自己の前日の午後行なったものでした。私は外来中にすぐ来てくれと言われ、病棟に行ってみると、患者は完全に心停止していました。必死の心マッサージとあらゆる薬をつかい、何とか心臓は動きだしましたが、脈は40/分以下、血圧は80mmHg以下で意識は戻りませんでした。主治医は車で約30分位のところにいたのですがなかなか戻ってきませんでした。患者の妻は泣き崩れて立っておれず、座ったまま「小さな子供が二人いるんだ。何とか助けてくれ。」と私は足に抱きつかれました。私も必死でしたが意識は何をしても戻りませんでした。二時間たって主治医で部長のIc先生が戻ったため私は外来に戻り、その後どのような処置が行なわれたのか知りませんが、患者は死亡しました。私の医師生活のうち、これほどショックで驚いたことはありません。正直私は数か月前にコロナリーカテ―テル検査を辞める宣言をしてよかったと思いました。私はコロナリーカテーテル検査を止めたため、かなり三菱病院に居づらくなりました。死亡者がでたのにコロナリーカテ―テル検査は検査回数は減らず続けられました。各大学、病院の依頼のためだと思います。

 

第十一章 大学での研究断念と国立豊橋病院

論文の別冊要求と大学での研究

話は変わりますが、私の研究論文がアメリカの超有名誌アメリカンハートジャーナル(アメハ)(ref.26)とアメリカンジャーナルオブカーディオロジー(アメカ)(ref.25)に同月同時に掲載され、そのため、私は世界的に超有名になりました。論文の別冊を送ってほしいという葉書が山のようにきました。日本からは一枚も来ませんでした。その時私はアメリカに二か月くらい行っており、来た葉書を隠すことができませんでした。アメリカから帰ってきたら、葉書の山があったのです。これは嫉妬されてまずいと思いました。が、後の祭りです。嫉妬されてまずいどころか、もっとごたごたし、味方がいないため、大学か別の病院に行こうと思いました。名古屋大学の三内には三菱病院と全く同じ機械がありますから、それを食道用に改良して引き続き食道断層の研究を続けようとしたら、三内はすべて私が機械を改良して食道断層のチューブは私が持っていき、大学の先生は心臓屋で食道にはチューブを入れられないから、私がすべて検査してくれと言いました。それはよいとして、「私が半分の症例を発表するから残り半分を大学の先生が発表してくれ。」と言ったら、なんと、「君は世界最初のことがいくらでもできる男だが、大学の先生は三人とも世界最初のことは一生に一度のチャンスしかない。だからすべての検査は君がして、発表はすべて私を含めて三人がする。」との事。私は世界最初のことがいくらでもできるから、別の何か新しい世界最初のことをやってくれとのことでした。そんな条件では行く人は誰もいないと思い辞めました。10年くらい後でKb先生に会った時、「なんであんなことを言ったんだ。」と問うと、「若い二人に言われて仕方なくそういった。」と言っていました。

 

国立豊橋病院

それでやむを得ず、大学に就職する病院の紹介を頼みました。大学の紹介で国立豊橋病院に行きました。私が岡崎出身で、岡崎が豊橋に比較的近いため、派遣されたものだと思います。国立豊橋病院に行ったら驚くべき病院でした。病床は400床くらいで、三菱病院より大きく、付属の看護専門学校もあるのですが、設備が最高の三菱病院から、設備最低の病院に赴任してしまいました。心電図ですら真空管式の機械が一台あるのみで、しかもいつも壊れていました。まともな医師は内科呼吸器のSu先生のみでした。その年に愛知医科大学を出て半年もたっていない女の先生が一人前の顔をして、誰にも相談せず、患者を診ていました。研修医制度もなく誰も彼女を指導していませんでした。呼吸器の先生は本当にすぐれた医師で、そのため呼吸器の患者、特に胸水のたまった患者が多すぎて私も診ざるを得ず、胸水を抜くのにも難しい場所の患者は胸水を抜くときは教えてもらうことを条件に患者を持ちました。難しい位置の胸水を抜くとき、約束通り呼吸器の先生に立ち会ってもらっていた時、胸部X-Pから推定できる位置を指さして、針をさすところがここでよいかと聞いたところ、Su先生はずっと外側を指さしました。何故ここなのかを聞いたところ「理由はわからないけれど、経験的にそうだ。」という話でした。そこを針で刺すと、一発で胸水を抜くことができました。女の新米の先生はSu先生と私の後ろで患者に聞こえるように「医師になって8年もたっても胸水を一人で抜けないのか。私なんか、もう何人も一人で抜いている。」と言って騒いでいました。信じられないことです。治療を終わって医局に戻り、「何故あのようなことを患者の前でいうのか、私は胸水を抜いたのはせいぜい230人です。先生のように何千人の治療をしたわけではありません。しかもあの場所が難しいことはよく知っていますから先生に教えていただくことは恥ずかしい事ではありあせん。」と言ったところ、「聞いてくれればよいのに決して聞かないから。自分で抜いて患者が不幸なことになったことが複数回ある。」とのことで、「どうして相談してくれないのかわからない。」と言っていました。まさに、驚くべき病院に来てしまったと思いました。このSu先生は医師として優れているのみならず、クラシック音楽に詳しくクラシックのLPレコード3000枚以上のコレクターでした。

 

その病院の内科には慶応大学を出て、中日新聞(東京新聞)の中日歌壇の選者をしている先生がいました。その先生はほとんど外来の時(週に半日を2回)出勤するのみで、勤務時間内でも病院にはおらず病院の隣の官舎にいるため、患者が急変した時、看護師は主治医を呼ぶと同時に私も呼びました。その先生は私の指示する処置に感心すると同時に本当に驚いていました。私のする処置がすべて初めて見る処置だったそうです。医師にはこの先生のように時々文学者がいます。森鴎外も医師で文学者でした。森鴎外は文学者としては優れているかもしれませんが、医師としてはどうかと思うような言動をしています。明治時代は海軍の水兵は脚気で悩んでいました。ある医師の研究者が、海軍の軍艦の水兵に、ある軍艦では玄米を、別の軍艦には白米を食用で出したら、玄米の方が脚気になりませんでした。そうしたら森鴎外は「国を守る大事な水兵に玄米などを食べさせるなどトンデモナイ。」と言い、「白米を食べさせるべきだ。」と論文に書きました。こんなふざけた男が医師をしていたとは驚きです。彼は医師あるいは科学者としては全くの落第でした。

 

心臓カテーテル検査を止めたOo先生

名古屋大学を出た後輩にOo先生がいました。その先生も愛知県三河地区の大病院で循環器の医師をしていました。その先生にある循環器ミーティングであった時、彼の病院があまりに多数のコロナリーカテ―テル検査をしていて、事故の噂もあったため、私は「Oo君もあまり調子に乗っていると事故を起こすよ。」と余計なことを言ってしまいました。その先生が国立豊橋病院に私を訪ねてきました。私は私の左遷を喜んで軽蔑するために来たと思いました。それで彼にあった時、私はすぐにあやまりました。「余計なことを言って、悪かった。私は左遷に充分がっかりしているから、いくらでも軽蔑してくれ。本当に偉そうなことを言って悪かった。」と言ったら驚いたことに、彼は彼の病院でもほとんどの医師がカテーテル検査で事故を起こしており、彼は事故を起こしていない唯一の医師で、私を見習ってカテーテル検査をしないことに決めたのだそうです。開業医の父親は彼の性格から考えて、もし事故で患者が亡くなったりしたら、一生後悔するから止めろ。」と忠告され、思い切って検査を止める宣言をしたのだそうです。そうしたら、病院から追い出され、懲罰の意味で豊橋保健所に派遣されました。保健所の勤務は医師にとって地獄です。それでもOo先生は私のお蔭で検査を止められたと喜んでいました。

 

アルバイトと関西系の会社

国公立病院は給料が安いので、当時一般に収入補填のため会社の診療所にアルバイトに行くのが普通でした。国立豊橋病院からは静岡県になりますが、湖西市のアスモ(デンソーの兄弟会社、トヨタ系)の診療所に行きました。一般にトヨタ系の診療所は理想的で従業員は上司の許可がなくても、ただ本人が希望するだけで診療所にかかることができ、あらゆる検査、あらゆる薬がそろっており、医師に対するいかなる干渉もなく、理想的な診療所でした。従業員の健康面の環境と設備を最高にして、安心して働けるようにすることが結果的にトヨタに有利になるという信じられないような考え方でした。私は国立豊橋病院からだけでなく、以後の他の公立病院勤務の時にも診療所にアルバイトに行ったことがありましたが、一般に、関西系の会社は医師に対する干渉が極端にひどく、薬の処方、診断書にまで干渉してきます。会社の健保組合はほとんど黒字ですが、関西系の会社は、あなたも知っているような大会社でもその黒字の金をいろいろな名目をつけて、会社の金に組み入れていて、これは法律違反ギリギリの行為だと思いました。また、別の関西系の会社は大病院の医師を診療所のパートとして勤務してもらうと、会社の産業医にするのですが、子会社や関連会社の産業医にその医師の許可なく登録し、しかも、その会社から、お金を取り、その金は会社の収入にするとの話しです。そのようにすると、複数の会社から産業医の収入を取り医師には時間給のみ支払えば、その会社は逆に儲かってしまうとの話です。関西系の会社、愛知系の会社、関東系の会社を比較すると関西系の会社は信じられないほど健康管理能力に欠けるというのは多くの医師の意見です。

 

アメリカの学会での発表

私はその年もアメリカの学会に応募しておりました。その時も応募した論文が通り、アメリカに行かなければならなくなりました。そのため、2か月も前に院長に一週間の休暇を願い出ました。先輩の先生に患者を診てくれるよう頼みました。先輩の先生は快く引き受けてくれましたが、院長が休暇は許可しないと言いました。そのうえ院長は大学の医局長に電話しました。医局長は絶対に休暇はダメだというのです。アメリカの学会に行かなかったら、日本人の信用にかかわり、他の日本人に非常に迷惑をかけてしまいます。アメリカでは権威ある学会に通れば、それが保証となり多くの研究費を獲得できるということになる大事な学会です。ところが田舎者の院長、大学の医局長はそれが解らないのです。辞めたくありませんでしたが、仕方がないから病院を辞めていかざるをえませんでした。アメリカに行ったら、複数か所からアメリカでの共同研究お誘いがありました、私は比較的英語も得意でしたが、日本が好きで、アメリカ留学をする皆さんは留学だから頭を撫でてくれるのであって、本物の研究者にはそんなに甘くはありません。アメリカでは医学の研究所だけでなく、NASAU.SAir Forceからの誘いもありました。少しは心が動きましたが、やはり断りました。

 

三菱名古屋病院でのアルバイト

私には三菱病院には辞めて以後にも多数の英文の手紙が来ますから、外来のナースに受け取っておいてくれるよう頼んでありました。アメリカから帰って、手紙をこっそり受け取りに行くと昔の同僚から超音波検査とその診断を正しくできる人がいなくて心臓外科が困っているから超音波検査を週2回するアルバイトをしないかという話をされました。私はまだ少し研究をしたくて、勿論感謝して引き受けました。また、同時に私の失業の噂を聞いたのか、当直のアルバイトもしてくれとのことでした。それも断る勇気がなく、引き受けました。病院は私が辞めてから一年もたっていないのにすっかり変わっていました。私の研究費用についてはすべて私のポケットマネーで賄っていました。医学部卒業時わたしにはコンピュータ学校の講師で得た金が500万円以上貯金してあり、また、病院の給与も年1200万以上ありましたそのほとんどを研究費と外国発表の渡航費に使ってしまいましたが、金稼ぎのために三菱病院に行っていたのではなく、ただただ研究を続けたかったからです。毎月のバイト代はほとんど受け取りに行きませんでした。一~二度外来のナースが代わりに受け取ってくれたことがあります。その間の生活費はwifeに渡しませんでしたから実家の援助を受けていたのかもしれません。

 

当直の日、ナースステーションに行って本当に驚きました。一番驚いたのは、私が7年間診ていた28歳と63歳の腎不全患者です。この二人は入退院を繰り返していました。28歳の方は入院して3年に一度36か月退院して午前10時から午後3時までの勤務をしただけでした。患者本人は「早く退院して勤務したい。」というのを「あなたは透析にならないことだけを考えよ。時々入院して治療していれば1020年腎臓は持つかもしれない。連続勤務すれば一年で透析だ。」といつも入院の必要性を説明していました。7年間もほとんど入院していたら、病院の主のようなもので、ナースに冗談を言ったり、お尻を触ったりしていました。私が病院を辞めるとき、二人とも私と卒業年次が同じ先生に主治医になってもらいました。当直で病棟に行った時、ナースに「腎不全の二人の患者はどうか。」と聞いたら、すぐに返事をせず、一番先輩のナースが「63歳の患者は死にました。28歳の患者は透析になり、一言もものを言わなくなり、私たちのお尻も触らなくなりました。無理もない話で、婚約し、結婚式の日取りも決めていたのに透析になったため破談になってしまったんだそうです。」私が頼んでいった先生は私が辞めたらすぐに退院させ、「普通に仕事をしてよい。」と言ったそうです。再び入院した時はすぐに透析だったとの話でした。その主治医のKa先生は私が当直の日に医局にいたら、タバコ(ハイライト4個)投げてよこし、私が反応しないでいると「失業者なのに私の恵みのタバコでは喫えないか。」と言いました。私はそれを拾って「ありがとうございます。」と言ったら満足そうに出ていきました。その時私とKa先生以外に産婦人科の当直医がいて、それを聞いていて「よく我慢するね。」とあきれていました。

 

第十二章 ドイツからの招待

ドイツからの招待

私は三菱名古屋病院の名前で論文を出したいし、郵便物をもらうため、三菱病院でアルバイトをしていましたが、1982年の初めにドイツのハンブルグで超音波診断のシンポジウムがあり、それは私の5年後に世界で二番目に食道断層を行なったドイツ人の主催で、その公演依頼とその時同時に世界的出版社から本を出版(ref.37)するからその原稿依頼が舞い込みました。誰かが食道断層を世界で二番目として研究発表してきたら自分の役割は終わったから研究を止めようと思っていました。いよいよその時が来たのです。私の次に食道断層を開発したのはSouquetという人で、正確な所属は忘れましたがアメリカの会社のエンジニアでした。メーカーがよくやることですが、自己の開発したものが最初に開発したものより著しく劣るとき、自分の国の医師にテストしてもらわず、他国の医師に渡してテストしてもらうのです。その方が、自国の人にダメな装置だとばれないからです。他国というのはほとんどがヨーロッパです。その中でも進んでいるドイツがよくねらわれます。知らないから、新しい機械を渡された人は舞い上がります。私の5年後に食道断層の機械を作ったSouquetが機械を持って行った先はドイツのハンブルグ大学の教授のHa×××th という先生でした。Ha×××thはその前年に今はあまり使用しないフラジンが最初に報告した食道のMモード検査を発表していました。その中の共著者に三菱病院に食道断層検査を見に来た唯一の日本人である松本先生が入っていました。松本先生はそのM-modeの食道超音波検査をしたことがあり、Ha×××thのところへ行って食道断層の機械が到着する前にM-modeで食道への挿入の仕方をドイツまでわざわざ教えに行っていました。それにしても私を招いたりするとは変わっているというより、食道断層のことを知らないのだと思います。アメリカで開発されたものをそれが私に勝てるなら、メーカーはドイツに持っていくはずはありません。負けるに決まっているから田舎のドイツに持って行ったのが解らなかったんですね。ですから私がたいしたことはないと思って、私を招待したのでしょう。それに松本先生が教えに行ったのに私を招待したのはHa×××th 氏が舞い上がっているので、からかうつもりで私の招待を薦めてくれたのでしょう。何故なら、もし私の学会での発表を見たり、あるいは有名誌の論文(ref.25,ref.26)を読んでいたら、自分が恥をかく原因となる私を招待するはずはありませんから。それが証拠に今はあまり使われない、食道M-modeを開発したFrazin氏は招待されませんでした。本当にSouquetはよくぞ田舎のドイツに機械を持って行ってくれました。何も知らないから、Ha×××thは私を招待したのです。ミーティングに出ると旅費・宿泊費を含めて大金を講演費としてもらえるとのことでまことにありがたいと思いました。そのミーティングの時に配られる発表者が著者になっている本(ref.37)もミーティングの初日に配られる予定でした。ミーティングの初日に出席の手続きをしていた時、我々が執筆した本は山積みになっていました。ところが約束と異なり、著者である我々にも本を渡しませんでした。多くの著者もそのことに抗議していました。私はすぐに理由が分かりました。開催者のHa×××thは私の研究成果の写真を見て驚いて自分の心臓の像があまりにも悪く、特に私のことをあまり知らないヨーロッパ人に見せたくなかったのでしょう。結果は私の予想通りでした。Ha×××thの新しい食道断層装置で撮影した心臓の像は、何とか写っていましたが、私の発表の像に比べたら見られたものではありませんでした。さらに発表方法も悪く、私が16mmフィルムで大写しで映写をしたのにたいして、当時のわずか走査線525本のビデオによる録画をビデオプロジェクターで暗く、極端にコントラストが悪く、かつ小さく上映したのみでした。

 

その会でシンポジウムがあり、私は勿論壇上にはいませんが、彼らは自身の哀れな発表で頭に来たのか、Ha×××thの後に経食道断層を発表したアメリカ人の教授が、「自分の食道断層の検査で死者が出た。」と言ったのです。それはよいのですが、なんと私も検査で事故を起こしたと発表しました。私はすぐ反論しました。「私の検査で一度も死亡事故など起きていないのみならず、すべての検査で事故などありません。経食道断層検査は胃カメラの検査と同じです。三菱病院で胃カメラの検査は毎日約10人くらい、年に2500人くらいの検査が行なわれていますが、一人も死んでいません。」と言いました。さらに「日本では年間100万人以上胃カメラ検査をしていますが、死者が出るなど聞いたことがない。誰がそんな嘘を言ったんだ。」と言いましたら、東京の有名なMc先生だと言いました。私は「Mc先生のことは見たこともあったこともなく、何故そのようなことを言うのか理解できない。」と反論しました。日本人も本当に恐ろしいと思いました。それにしても死んだなんてどのような方法で検査したのだろうと質問したらなんと患者を座らせた状態でチューブを食道に挿入して、その座ったままの姿勢で検査を続けたのだそうです。私は「私の論文で検査前にキシロカインゼリーではなく、キシロカインを咽頭部を見ながら噴霧して、左側臥位で挿入し、検査しろと述べているはずだ。そうでないと危険だ。」と言い、日本ではすべての胃ファイバースコープの検査ではそうしていると言ったら、拍手が起こりました。それ以後食道断層検査はすべて左側臥位で行われて、アメリカでも危険がなくなりました。さらに、このことはアメリカでの胃ファイバースコープ検査にも次第に普及していきました。私はアメリカでの経食道超音波検査及び胃ファイバースコープ検査の安全性の向上にも本当に大きな貢献をしたと思っています。

 

前述の三菱病院に食道断層装置を見に来た唯一の日本人の松本先生は私と日本で今はほとんど使われないM-modeといわれる食道での検査を世界で2~3番目にしたというMa先生とをハンブルクの町を案内してくれました。私はハーフの安物ですが、非常に便利なカメラで写真を撮りました。それを見て、そのMa先生は自分のコンタックスカメラを見せてカメラ自慢を始めました。驚いたのは私でしたが、多分もっと驚いたのは松本先生です。私は心臓超音波検査をする人は当時写真が重要で、多くの研究者というより研究者全員が写真の撮り方がへたくそで日本での超音波の検査の権威である大阪大学の仁村先生が学会で各発表者の写真の悪さを指摘し、2回にも渡って久永先生の教えを乞う必要があると学会で発言していたくらいです。松本先生は大阪大学ですし、私の病院へも来てカメラを見ています。昔、アサヒカメラだったか忘れましたが日本の有名なカメラマンのカメラのコレクションを全部映して本人がその真ん中に座った映像が載せられているのを毎月連載し、紹介されていたことがありました。それを見て私はプロのカメラマンはカメラに関してはアマチュア同然と思いました。私は35mmシネカメラ一台16mmシネカメラ5台などあらゆる高級カメラを持っていました。35mmシネカメラは三菱病院のシネアンギオにもついていましたが、それはアリフレックス社のアリテクノ35mmと言いましたが、当時3600万円もしました。16mmのシネカメラも5台ありましたが一番安いので300万円でした。そのMa先生のカメラの自慢を聞いて変わった先生だと思いました。

 

話を戻すとこのシンポジウムでの講演は非常に有益でした。というのは新しくメーカーが開発した機械と私の装置とを比較して多くの研究者に見てもらうことができたからです。しかも私の著書が一冊増えました。私はこれが多分私の最後の発表になると思い、私の食道断層装置及び検査のすべてを書き、圧倒的な写真を多数載せました。しかも査読がないため、リファレンスには私の論文を20近く載せました。このことが後々本当に良かったと思いました。この本はベストセラーになり、私が1977年から食道断層を世界最初に行ない、臨床的論文も多数あり、世界に5年もリードしたことを世界に知らせることができたのです。全く松本先生には感謝でいっぱいです。この本は「Cardiovascular Diagnosis by UltrasoundP. Hanrath (ref.37)で出版社がMartinus Nijoffでしたが、後に出版社がSpringerに変わりましたが、現在でもコンピュータで一冊ずつ作ったものを購入できます。

 

パリとロンドン 

ハンブルグのミーティングを終えてからパリに行きました。パリをゆっくり見物しようと思いました。もちろんルーブル美術館が一番素晴らしかったと思います。パリには約1か月いましたが、途中でイギリスにも行きました。行きには電車でカレーまで行き、ホバークラフでドーバー海峡を渡ろうと思いました。日本赤軍が世界を騒がせていた時です。電車でカレーに来て、ホバークラフトでイギリスに渡ろうなどという日本人は怪しまれ、上着を脱がされて厳しく検査を受けました。ドーバーからロンドンへ列車で行きました。ロンドンではまず大英博物館に行きました。当時の大英博物館は図書館も併設していて、グーテンベルク聖書を初めて見ました。ゲーテの直筆も見ましたが、まるで印刷のような気障な書体でした。博物館ではロゼッタストーンを見て感動しました。ギリシャのパルテノン神殿の彫刻群及び数々の魅力的なエジプト古代彫刻には感動しました。特に素晴らしい女性の彫刻像には非常に驚きました。その規模は日本の東京博物館とは全く異なり、素晴らしい博物館でした。日本の美術館や博物館は有名なところへはすべて行ったと思いますが、規模が小さく、日本の美術でさえろくろく集めていなくて、極端に言えば美術館は職員の遊び場所になっているのではないかとさえ思います。パリのルーブルもエジプトとギリシャの彫刻が最も魅力的でした。勿論モナリザを含めた絵画も十分楽しみました。モナリザは素晴らしいですが、ミロのビーナスやサマトラケのニケは何の魅力もない彫刻でした。

 

第十三章 静岡県        

静岡県の公立病院

日本に戻ってから静岡県のFu市とSi市の複数の公立病院に勤めました。ここで、あまりにも恐ろしい日本の現実を見ました。あまりに恐ろしいのでここでは直接書くのは控えようかと思います。それは勿論病気と命に関係することで見るのも聞くのも恐ろしい現実でした。愛知県と言うところと名古屋と言うところがいかにまともで優れたところかよくわかりました。その恐ろしい世界をまた、書く機会があれば書こうと思います。でも一つだけ書いておきます。最後の公立病院を辞めるときに驚くべきことがありました。辞めるときにある病棟の主任看護婦に誘われました。それはその病院の唯一まともな医師Ss先生に言われて誘ったのだそうです。Ss先生の発案と言うので、それならと私も彼女の話を聞きました。そうしたら、「この狂った病院を直す必要があり、何とかしなければならない。私はもうすぐ婦長になります。いくら先生が優れていても一人で改革はできない。看護婦の助けが必要だと思う。だから、今晩私を抱いて下さい。そのような関係になって、Ss先生と一緒に病院をよくしましょう。」というのです。本当に驚いてしまいました。随分美人のナースでした。その数日後、別のナースが私を誘い、やはり「抱いてくれ、そして、病院を改革しましょう。」というのです。こちらも美人でした。断りましたが、今では少し後悔しています。もちろん私は女性にもてるなどとは思っていません。従って誰も信じないかもしれませんが本当の話です。

 

心室性頻拍と除細動

この病院の驚くべき状態は恐ろしくて書けないですが、それほど恐ろしくない話を一つだけ書いておきます。それは私がSi市民病院を辞める2か月くらい前の話ですが、ある患者が救急車でやってきました。救急車で来た患者は医師が順番に見ることになっていました。しかし、若い先生は少しでも楽をしようと救急車が来ると走って駆け付け軽症の患者と診ると自分が診て、重症の患者は全部私に押し付けました。ある時、救急車で来た患者は60歳位の男性でしたが、胸の痛みと苦しさを訴えていました。それを見た若い先生は全員逃げました。私より年寄りは副院長と院長だけで、院長は入院患者を診ませんし、副院長はアル中でした。その救急車の患者に心電図をとったところ心室性頻拍でした。直ちに除細動を行わないと死んでしまいます。生きている人の除細動は全身麻酔が必要です。麻酔を外科に依頼したら、あっさり断られました。「そんなことはしたことがない。」というのが理由です。内科の若い先生も除細動に麻酔なんてと言って笑っていました。私は非常に驚きました。心停止した患者に医師が両手に電極を持ってほかの人を離れさせ、ドカンとやるのを皆さんもテレビドラマで見ていると思います。テレビでは十中八九心停止した時にやっています。心停止の時ではなく、心室細動か心室頻拍の時に除細動は意味があるのであり、心臓が止まっているのを再び動かすために行なうものではありません。心室細動は一般に、起こるとすぐに意識がなくなりますから麻酔は必要ありませんが、放っておけばすぐ死んでしまうため除細動をするのは稀です。心室頻拍は身体を動かすこともでき意識は勿論ありますから、除細動をするのに麻酔が必要です。若い先生たちは本当の除細動を見たことも聞いたこともないのですから驚きです。仕方がないので私はナースステーションから静岡市民病院の循環器科に電話し、「心室性頻拍で除細動するため、外科に麻酔を頼んだら断れました。そちらに送りますから治療をよろしくお願いします。」と言ったら快く引き受けてくれました。ところが内科の婦長がそれを聞いていて、「あれは脈が速いからPATだ。」と言い、自分で静岡市民病院に電話し転院を断ってしまいました。あわてたのは私です。婦長は「絶対に私の眼の黒いうちは送らせない。ここも静岡市民病院も同じ市民病院で対等だ。」と啖呵を切っていました。私が途方に暮れていると主任が手振りで何か私に合図をしていました。私が無視していると、ついに白衣を引っ張って廊下に連れ出されました。電話の話は本当かと聞いてきました。本当だというと、午後四時まで生かせないかといいますから、「今おしっこはわずかに出ているから、1日は大丈夫だと思う。」と言ったら、「午後四時になると、あの婦長は婦長会議のため病院を出ます。そうしたら私の天下だからそれから送って下さい。先生はその旨また静岡市民病院に電話してください。」と言いました。私はその通り、隠れて静岡市民病院に電話したら、それも快く承諾してくれました。午後四時過ぎになり救急車を呼びました。私から本物の除細動の説明を聞いた若い医師三人は少しは分かったのか静岡市民病院に行って、それを見たいと言いました。救急車に交渉したら乗っても良いということでした。静岡市民病院では救急車の迎えに医師が待っていて、私の前で「間違いなく心室性頻拍で、すぐに麻酔をかけて除細動をします。」と言いました。その時、「若い先生が見たいと言っているから見せてやってくれないか。」と頼みました。快く承諾してくれました。私のみ再び救急車に乗って帰りました。若い先生は除細動を見学し、病院に戻ってから、私を笑って軽蔑したことなどすっかり忘れて、「凄かった。」と感心していました。私はかなり頭の良い人たちと付き合ってきたためか頭の悪い人は恥を知らなくて、自分が言ったことをすぐに忘れてしまうのだということを知りませんでした。いや、恥というものを知らないから頭が悪いのかもしれません。

 

第十四章 私立病院

私立病院

話をもとに戻します。私が確実にSi市民病院を辞めるとわかったら、Ss先生がHa病院を紹介してくれました。Ha病院は私立の病院ですが、私は完全に公立病院に懲りてしまいましたから、私立に行ってみようと思うようになりました。その病院は浜松医科大学から数kmのところにありました。予想通り、市民病院などよりはるかにまともでした。それでもびっくりすることが何回もありましたし、本当に静岡県の病院では変わったことを色々経験できました。このHa病院は浜松医科大学に極めて近く、病院間の距離で言えば隣と言ってもいいと思います。昼の休憩時には医科大学の図書館によく行きました。雑誌の種類は名大のおよそ半分程度しか購読されていませんでした。しかし、予想通り図書館には学生は全くおらず、ほとんどゼロのため、私は私専用の図書館のように利用させてもらいました。

 

糖尿病

この病院でもいろいろなことを経験しました。私は純粋の循環器屋ですが、三菱病院で糖尿病の医師の患者の数が多すぎ、オーバーフローしていましたから、私も糖尿病患者を押し付けられて、常に糖尿患者を多数診る状況でした。あるときHa病院の医師が糖尿病の研修会に行きました。行く前に私も誘われましたが、バカらしくて行きませんでした。その代り、私は糖尿病研修会の講師が何を話すかの予想をし、しかし、それは古く間違っていると言い、新しい治療を説明しておきました。実際の研修会はすべて私の予想通りで実に古い間違ったことばかり教えられる研修会だったようです。院長はそれを聞いて、私が他人の講演を予想し、それがピタッと合っていることに驚いていました。おかげで私の信用は高まりました。

 

糖尿病と言えばその病院で驚くべき経験をしました。浜松医科大学の第二外科は慶応大学出身の教授の講座でした。私がHa病院に着任して間もなく浜松医科大学第二外科に慶応大学出身で膵癌の手術の得意な医師が助教授として赴任してきました。浜松医科大学はそれまで膵癌の手術をしていませんでしたが、専門家の赴任で膵癌の手術を始めました。膵癌の手術で膵臓を摘出すると、その時から高度な糖尿病患者になります。糖尿病は浜松医科大学では京都大学出身の教授のいる第二内科の担当でした。そのため術後の糖尿病管理は第二内科に依頼しました。ところが、糖尿病の管理が悪く、術後なくなってしまったのです。Ha病院の院長は慶応大学出身で浜松での同窓会で私の話をし、私に無断で膵癌の手術後の糖尿病の管理を引き受けてきてしまいました。私は本当に驚いてしまいました。膵癌の患者を手術が終わったら直ちにHa病院に連れてくるから、私に糖尿病のコントロールするように言われたのです。その患者の他のことは常時第二外科の若い医師を二人派遣するから教えてやってくれとの話でした。浜松医科大学の若い医師はHa病院にもアルバイトに来ていましたが、エリート意識が極めて強く、私は気が進みませんでした。最初の患者が手術後すぐに救急車でやってきました。若い医師が二人ついてきました。予想に反して二人とも極めて真面目で、よく私の話を聞いてくれ、勉強家でした。8時間ごとに二人の医師は交代し、私が教えたことは申し送りをし、糖尿病以外のことは全てその先生たちがしてくれ、すべてがうまく進みました。膵癌の手術後の糖尿病患者はそれから六人くらい送られてきました。その頃までには多数の若い医師が糖尿病の治療を完全に学習してくれましたので、「次回より大学で自分らだけでしてください。」と言い、それからは第二外科で術後管理をするようになりました。私はお役御免となりましたが、大学からは非常に感謝されました。

 

大学の若い先生のアルバイト

大学と言えば、第二内科の医師もHa病院にアルバイトに来ていました。第二内科は京都大学系ですが、その先生たちのほとんどの診断治療がかなりおかしいのです。そのことは院長もわかっているようで、そのため私に次のような依頼を受けました。「内科のアルバイトを名古屋大学系の第三内科からも来てほしいと思っているが、何度頼みに行っても断られてしまった。第三内科の若い医局員も経済的にはむしろアルバイトをしたいに決まっている。」私が名古屋大学出身のため私が頼めば医師を送ってくれるだろうと思ったのか、私に「教授にあって頼んでくれ。」と言いました。私は勿論第三内科の山崎教授が循環器専門のため名前はよく知っており、私は世界的に有名でしたから教授が私のことを知らないはずはありません。しかし私はその時病院勤務は開業のためにいる、つまり金稼ぎのために勤めているだけですから、何度も断りました。院長は「第二内科、第二外科のアルバイトに来ている医師たちはHa病院が自分たちがアルバイトに来ることを必要なことが分かっているため足元を見て、時々さぼったりするので助けてほしい。」とまで言われ、仕方なく第三内科の教授に会いに行きました。もちろん教授は「私の頼みなら。」ということでHa病院に若い医師を送ってくれることになりました。その時、ついでに教授に「第二内科の先生のレベルの低さにあきれる。」と言ったところ、「第三内科の若い医師と第二内科の若い医師が学生時代の同級でわからないことがあると第二内科の友人に聞いたり、相談したりしていた。すると不適当な診断、不適当な治療をするため、第三内科では第二内科の医師と会話をすることを禁止している。」との話でした。

 

利尿剤と浜松医科大学の助手

また、次のような話もありました。浜松医科大学の内科の助手が定期的にアルバイトに来ていました。病院には60歳を超えた女医が勤務しており、その助手がその先生の指導をしていました。偉そうに、その助手はその女の先生のみならず、私の患者のカルテもチェックしているようでした。ある日、院長、副院長立会いの下に私に話があると言いました。医局で聞くことになりましたが、彼は私が担当している重症の心筋梗塞かつ心不全の患者に私が利尿剤を使用しているが「トンデモナイ間違いを犯している。」というのです。

心不全はうっ血し、水が身体にたまってしまい、体の中の水の量を正常に戻す必要があります。その時利尿剤を使います。その患者は重症で寝たきりでした。私はラシックスという薬を24時間の持続点滴にして治療していました。つまり点滴内にラシックスの注射液を入れて治療しました。このような重症者は通常尿道から膀胱までカテーテルを入れて、尿量を測定し、排尿のためトイレに行くことはありません。その患者に「ラシックスを一日中入れるのはおかしい。」と私に抗議するのでした。私は「どうしてそのような程度の低いことを言うのだ。」と言ったら、「ラシックスは朝のみ使用するのは医学の常識だ。」というのです。ラシックスを朝内服するように指示するのは夕とか夜寝る前に服用するとおしっこが出て、夜眠れなくなるからであって、医学的理由ではありません。「寝たきりで一日中持続点滴をし、持続導尿カテーテルを入れている患者は膀胱に尿がたまらないため、尿意もなく、また自分で排尿する必要がないため、一日中連続で使用するのが普通でこれが正しい使い方だ。」と言ったら、相手は驚いていました。私はあきれて、「そんな基本的な事を知らなくて、どうしてそんなことを考えたのか。」と聞いたら、「医師になった時、先輩から一生覚えておけと言われた。」とのことでした。全く信じられないことです。その先生は助手にもかかわらずあらゆる能力に欠けており、どうして京都大学を出て浜松医科大学の助手になれたのか不思議でした。

 

若い先生とレスピレーター

 浜松医科大学といえば、ここを卒業した若い先生にはいろいろ興味深い話があります。私が、重症患者のため、夜遅くまで病院にいたときの話です。当直でもないのに、ナースから電話があり、「CCUに至急来てくれ。」とのことで「どうしたんですか。」と聞いたら、金切り声で「ともかく至急来てくれ。」との話でした。CCUに行くと、重症患者につけていた人工呼吸器が止まっていました。すぐ調整して再起動しましたが、各種のつまみの位置がでたらめでした。事情を聴くと、浜松医科大からのアルバイトの当直医がレスピレーターの勉強のためか、勝手にツマミをいじり回し止まってしまったのだそうです。大きなブザーが鳴り驚いて、その当直医はなんと逃げたのだそうです。その無責任ぶりには本当に驚きました。あくる日副院長にそのことを言ったら、「あの○○またやったのか。しょうがない奴だ。」と言いました。過去にもそのような事故を起こして逃げたことがあるのだそうです。私は「何故レスピレーターが止まったら、レスピレーターを外して、手のアンビューバッグにつなげて手動で呼吸させ、わかっている医師を呼ばないのだろう。」と言ったら、「そんな頭があったらもともと黙ってレスピレーターを操作して、事故を起こすようなことはせず、、誰かにレスピレーターについて教えを乞うだろう。」とのことでした。しかし、私が不思議に思うのはこんな事件を起こしてもどうして仕事を続けられるのか本当に不思議です。三菱電機でしたら、消える以外に方法はないでしょう。

 

若い先生と挿管の練習

私の患者が重症で、遅くまで残っていた別の日のことです。私は当直でなかったにもかかわらず、突然「すぐ、外科病棟に来てくれと」と呼ばれました。急いで行くと、その日に手術した患者の呼吸がおかしいのです。「どうしたのだ。」と聞いたら、「浜松医科大学の新米の外科医が今日の当直で、二人の当直でもない浜松医科大学の研修医を呼んで、三人で外科医が全員帰った後、まだ、完全に麻酔から覚醒していない患者に気管支鏡を使って気管チューブを気管に挿管する練習をしていたのですが呼吸がおかしくなったので、三人とも逃げた。」のだそうです。私は直ちに喉頭鏡で口の中をのぞいたら、気管の入り口のところが出血して、かつそこにラムネの玉くらいの血腫ができ、その血腫が気管の入り口をふさいでいます。驚いてピンセットでとろうとしても、気管に強くくっ着いていて無理にとると出血しそうです。私は内科医で、もし新鮮血が出血したら、このような場所の止血方法を知りません。それで、外科医と院長に電話し、至急来てくれるように依頼し、外科医が来るまで、喉頭鏡でのぞきながら、ピンセットで血腫を気管を塞がないように押さえていました。外科の先生が来院し、引きついでもらいました。外科の先生が血腫を取ったら出血しましたが、特殊な圧迫で止めたようでした。それにしても、手術患者を手術後に気管挿管の練習に使うとは信じられません。

 

若い先生と診断書

私は重症患者を担当しているときはいつも、遅くまで病院にいたのですが、レスピレーターを止めてしまって逃げた先生が当直の日に別の重症患者がお亡くなりになりました。そうしたら、死亡診断書の死亡の原因の欄に「心停止」と書いていました。驚いて、ナースに「書き直すように伝えてくれ。」と言いましたが、私の言うことは聞かずに家族に書類を渡してしまったようです。あくる日の朝、医局で副院長に「静岡県は死亡原因に心停止などと書くことが許されるのか。」と聞いたら、「いかん。いかん。そんなことは許されていない。またやったのか。」と言って、院長を呼んで二人で死亡診断書を家族から取戻し書き直していました。新米とはいえ、世の中には驚くべき医師がいるものです。

 

私が病院としては最後に働いていたこのHa病院には慶応大学を出た若い外科医のSu先生がいました。その先生のおじさんが小学校の校長をしていましたが、心不全で浜松最大のEs病院に入院して治療していましたが、経過が良くありませんでした。それで、外科のSu先生がそのおじさんの校長先生をHa病院に入院させるので、私に見てくれと言いました。私は承諾し、そのおじさんが入院してきました。診察したら、心不全は極めて高度で、顔も足も極度の浮腫で、いわゆる水だらけでした。なぜ大病院に入院していたのに、浮腫が高度だったのかわかりません。よほどのやぶ医に診てもらっていたのでしょう。これなら、利尿剤と強心剤でよくなります。治療ですぐに4kg以上体重が減少しましたが、これは痩せたのではなく、余分の水分を身体からかき出しただけです。それで退院になりましたが、退院後すぐ学校に出勤したら、顔の浮腫が取れて顔貌が変わり、部下の先生たちが校長先生とはわからなかったそうです。部下の先生に言わせたら見た目が全く変わったのみならず、歩き方が速くしっかりしたため、わからなかったのだそうです。Es病院と言う大病院に入院しても、何故こんな簡単な治療ができないのか全くわかりません。ただ、退院後小学校の校長として、学校のプール開きに先頭で泳いだという話をSu先生から聞き、いくらなんでもやり過ぎだと思いました。

 

第十五章 開業

開業

私はもともと臨床医療は多数の専門別の医師がおり、診断設備がすべてあり、優れたナースがいるところですべきだと思っていました。そのため病院勤めをしてきました。私は医学の研究、物理の研究、ソフトウェアの研究を行い、人に比してはるかに高度の研究業績を上げてきたと自負していました。しかし、医学の世界にいる人、特に医師はあまりにも学問の世界あるいは真面目な世界とはかけ離れています。医師は通常、たった一つの病院の勤務で終わることはありません。私の最初の病院が世間からかけ離れているほどよすぎる病院でした。私が医師になりたての頃、名古屋でも最大級の第一N病院では独身ナースのほとんどが医師とデキテイルという信じられない噂が伝わってきました。私がいた三菱病院ではたった一人の独身ナースでさえ、医師とデキテソウナ人はいませんでした。しかし、現実は私の運が良すぎたのです。多くの病院ではここで書くのも恥ずかしいようなことが行なわれているのが現状でした。私も医師が午後になると麻雀を始めるという病院があるということは噂では聞いていました。しかし、それを現実にみると、考えを変えざるを得ませんでした。次第に一人で開業して精一杯に仕事をする方がよいのかもしれないと思い始めました。つまり、開業を考え始めたということです。それで少しお金をためて45歳で小さく開業しました。仕事は桁違いに楽で、私のように非常に小さな開業でも収入は倍以上になりました。

 

コレクション

私は以前からコレクション趣味があります。開業前はもっぱら楽器、レコード、CD等を少しずつ集めました。バイオリンは34丁、チェロは8丁、ビオラ3丁、コントラバス1台、フルート8本、等ほとんどすべての管弦楽器を集めました。ソフトではレコード盤750枚、CD350枚でたいしたことはありません。本のコレクションは医師になったころから続けていました。インキュナブラ、シェイクスピアのフォリオ、世界三大美書、ナポレオンのエジプト誌がコレクションの代表的なものです。日本語の本は百万塔陀羅尼二基、明月記断簡二片、古活字版多数、浮世床、浮世風呂等多数です。開業後は少し絵と屏風も集めました。絵はほとんど洋画で日本画はほんの少し。日本画としては屏風を多数集めました。特に屏風は68隻あり、これは個人の屏風のコレクションとしては世界一だろうと思います。私が私のコレクションの本のほんの一部分を私のホームページに紹介したところ、慶応大学名誉教授の有名な本宮先生から手紙が来ました。私のコレクションに少し興味を持っていただいたようで、私のコレクションの選択が誤っていなかったのだと自負しております。本のコレクターは日本にも多数の人がいるようですが、魅力ある本を集めた人はほとんどいません。従って大学の図書館が興味を示さないのはむりもありません。これらの本は買った時の数倍の値段になり、多くの本が金銭的に今では手に入れられなくなったのみならず、インターネットの普及のためか、現在では多くの本が全く市井には出回らなくなってしまいました。

 

これらのコレクションは名古屋大学の図書館と博物館に寄付するつもりです。しかし、7年ほど前に図書館に電話をかけて、寄付のことを少し話しましたが、ほとんど関心を示しませんでした。私が本を寄付しようと思ったのは、私が大学の工学部の教養の時、図書館に一冊の本がガラスケースに展示されていました。それは英語の百科事典の第三版で恐らく、現在でもせいぜい10万円程度のものです。名古屋大学が歴史が浅いため大した本が無いにしてもあまりに哀れで情けなく思い、将来寄付しようと思って本のコレクションを始めました。私が大学図書館に問い合わせる直前、水田という前教授が本を少し寄付しました。そのことが新聞に載りました。私の大嫌いなルソーの民約論等です。日本人は経済、法律の古書が大好きで、これは噂ですが、ルソーの民約論初版は世界中に100冊くらい残っていますが、そのうち約50冊が日本にあると言われています。その水田前教授が寄付と言っても、およそ一億円ほどの金を要求したらしく、そのこともあって私も金を要求するかもしれないと思って、私に関心を示さなかったのでしょう。それ以外には一般に皆さんの古書の知識があまりにもなさすぎることが私のコレクションに関心を示さない理由かもしれません。

 

屏風

私のコレクションの中でも最大のものは屏風です。屏風は半双が68、つまり68隻を集めました。縦1.7m、横3.5mの絵が310万円でインターネットで買えました。信じられないような安い値段です。すべてインターネットのお蔭です。それも5年以上前の話で、現在ではネタが尽きたのか、よい屏風はインターネットではほとんど出回りません。 インターネットにおいての人間を描いた屏風あるいは優れた屏風の多くを私が手に入れたと思います。その種類は歌仙絵、源氏物語、伊勢物語、合戦図、洛中洛外図、風俗図、美人図等です。すべて人間を描いた屏風です。人間以外を描いた絵は私には評価が困難です。

 

オリンピック、戦争、天災

 今TVでは来年平和の祭典オリンピックを日本で開催するといって、関連スポーツの報道が次第に多くなっています。オリンピックの主競技会場は国立競技場ですが、ここは戦前の明治神宮外苑競技場だと思います。ここでは、TVで何度も見ましたが、1943年学徒出陣の壮行会が行なわれ、その時に多数の女学生が見送っていました。そして女学生は「死んで来い。」と金切り声で見送ったそうです。その同じ場所で平和の式典を二度も行うとは皮肉だと思います。また、近年台風等の自然災害が異常に増加し、家屋破壊等被害には政府がかなり補償するようになっています。作家の曽野綾子氏の話では、以前自然災害で政府が個人に金を出したことはないとの話ですし、古い話では美輪明弘氏の話では長崎の原爆投下の被害で、これが人災でも金も食料も何の援助もなかったそうです。前大戦において米軍の爆撃で何人死んでも気にせず、終戦までには三百万人以上が死にました。もし一年前に終戦していたら死者は十分の一で済んだと想定できます。東京大空襲は1945年3月11日でしたが、この時の死者は10万人以上でした。せめて、この直後に終戦していたら、死者は半分で済んでいたでしょう。それから74年たったら、ここまで変わるとは、これが74年前と同じ民族でしょうか。戦争で家と財産と家族を失った人々にもう少し補償してほしいという意見ももっともだと思います。

 

 

References

 

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From 1   Transthoracic image.   A long axis scan in a 31-year-old normal man.   Entire heart image is seen.   The endocardium of the left ventricle and the right ventricular anterior wall are seen.

 

2.  Frazin L, Tarano JV, Stephanides L, Loeb HS, Kopel L,Gurnar RM. Esophageal echocardiography.  Circulation 54:102-108,1976

Transesophageal M-mode only.   M-mode is time motion display of the Ultrasound wave along a chosen ultrasound line.

From 2 Photograph of esophageal transducer.  M mode only.

From 2   Panel A shows the external echo of a patient with documented mitral stenosis. Panel B shows the esophageal echo counterpart with reversed orientation.

 

3.   久永光造、久永朝香、永田和彦、吉田慎二  経食道超音波高速度断層撮影装置の開発と臨床応用 日本超音波医学会講演論文集 3243-441977 

Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Yoshida S      A new transesophageal real time two-dimensional echocardiographic system using a flexible tube and its clinical applications.  Proceedings of Japan Society of Ultrasonic in Medicine 32:43-44, 1977

From 3    Transesophageal horizontal scan in a normal female.

Flexible tubes were used and examinations of human were done .

Kohzoh Hisanaga, MD.(Hisanaga K.)    From "People who developed medical ultrasound".  p35, Itoh K, Ed., Supplement of Proceedings of 60th Meeting of JSUM 1992.   ("Chouonpa igaku no hatten wo motarasita hitotachi" in Japanese)   

Kohzoh Hisanaga is not only electronic engineer but also Medical Doctor.  

 

4.  Hisanaga K, Hisanaga A.   A new real-time sector scanning system of ultra-wide angle and real-time recording  of entire adult cardiac images --Transesophagus and Trans- chest- wall methods --.       In:White DN, Lyons AE, eds.    Ultrasound in Medicine.  Vol.4. New York; Plenum  Press, pp391-402, 1978  

From 4 Insertions of transducer to esophagus and transesophageal ultrasound examinations were performed with patients in left lateral position(left). Typical horizontal scan in a 26-year-old normal adult by using transesophageal method(right).   

From 4  Transthoracic images.  Paired short axis and long axis scans in a 26-year-old normal woman. The trabeculae carneae(or pectinate muscles) of the left ventricle are seen in detail. The entire right ventricle and the tricuspid valve are seen in short axis.

From 4   Transesophageal M-mode echograms.   These images were recorded in order to identify echo sources of transesophagel cross-sectional images.     

 

5.  Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y, Yoshida S.   A new transesophagel high speed linear scanner and its clinical applications.    Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine 33:47-48, 1978  

From 5   Transesophageal vertical scan through mitral valve in a normal adult.

 

6.   Hisanaga K, Hisanaga A.   A new trans-digestive-tract scanner with a gastrofiberscope.   Proceedings of the 23rd Annual Meeting of American Institute of Ultrasound in Medicine. p.108, November, San Diego, 1978    Human examination.  Optic guidance.

 

7.  Hisanaga K, Hisanaga A.   A new trans-digestive-tract scanner with gastrofiberscope.   Reflections 4, 221, 1978     Human examination.  Optic guidance.

 

8.    Hisanaga K, Hisanaga A.   A new transesophageal high speed sector scanner.  Abstracts of 3rd European Congress on Ultrasonics in Medicine (3rd Congress of EFSUME) pp201-205, October 1-5, Bologna 1978   

From 8    Transesophageal horizontal scan at the level of aortic valve in a normal adult.

 

9.   Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y,Yoshida S.     Transesophageal cross-sectional echocardiography  ---New method for cardiac diagnosis--- (abstr.)  Jp Circulation J (Circulation Journal) 42:773,1978

 

10.  Hisanaga K, Hisanaga A, Ichie Y.   A transesophageal ultrasound sector scanner for oblique scan(abstr.).  Circulation 60(suppl. II) : II-245,1979             Examination of human.

 

11.  久永光造、久永朝香  経食道及び経胃壁超音波高速度断層法と臨床応用  映像情報Medical 1117, 1094-1099, 1979

 

12.  久永光造、久永朝香、永田和彦、市江良康、神戸忠  経食道超音波高速度心臓断層法 ---装置の開発と臨床応用における心臓の水平、垂直、斜断層像--- 臨床ME 33 330337, 1979

 

13.  Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y.   A trans-stomach wall sector scanner with a gastrofiberscope.    Abstract of 2nd WFUMB, p383, July 22-27, Miyazaki, 1979          Examination of human.   Optic guidance. 

 

14.  Hisanaga K, Hisanaga A.   A new transesophageal radial scanner using a rotating flexible shaft and initial clinical results.    Proceedings of the 24th Annual Meeting of American Institute of Ultrasound in Medicine. p.122, August 27-31, Montreal, 1979

 

15.  Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y.   A trans- stomach wall high speed rotating scanner and initial clinical results.    Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine 35:115-116, 1979  

Photography of original paper    

From 15   Trans-stomach-wall high speed rotating scanner.

From 15    Horizontal scan through the left kidney in a normal adult by using the trans-stomach-wall rotating scanner.  When near gain is standard. Pancreas is seen as echo free space near the esophagus.

 

16.   Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y.   Cardiac imaging using a transesophageal ultrasound high speed rotating scanner.     Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine  35:157-158. 1979  

From 16     Transesophageal high speed rotating scanner.

From 16     Transducer and commutator in oil bag.

From 16     Horizontal scan at the level of the mitral valve in a patient with severe mitral stenosis by using the transesophageal high speed rotating scanner.  Anterior and posterior mitral leaflets are thickened. 

 

17.  久永光造、久永朝香  超音波内視鏡(ファイバースコープ付超音波スキャナー)の検査手技--- 消化管内脱気水充満法について---映像情報Medical 1213 173176, 1980

 

18. 久永光造、久永朝香、神戸忠  内視鏡的経胃壁超音波高速度断層法--- 検査手技と腹部断層像---臨床ME 45 525529, 1980

 

 

19.   Hisanaga K, Hisanaga A, IchieY, Nishimura K, Hibi N, Fukui Y, Kambe T.   Transesophageal pulsed Doppler echocardiography.    Lancet 1:53-54,1979  

 

20.   Hisanaga K, Hisanaga A, Kambe T.   Detection of atrial septal defect by transesophageal two-dimensional echocardiography.   Circulation 62(Suppl. III) : III-34, 1980   

 

21. Hisanaga K, Hisanaga A.   Pancreatic echography using a trans-stomach  wall ultrasound rotating scanner (abstr).   Gastroenterology 78:1183, 1980 

 

22.  Hisanaga K, Hisanaga A, Kambe T.   An endoscopic ultrasound scanner    for abdominal echography (abstr).   Gastrointestinal Endoscopy 26:68, 1980    

 

23. Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y, Isaji F.  Transesophageal cross-sectional echocardiographic diagnosis of Lutembacher’s syndrome.  Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine, 37:179-180,1980

From 23  Fig. 4   Transesophageal cross-sectional echocardiogram before surgical repair in a patient with Lutembacher's  syndrome.  Cross-sectionishorizontal.         

ESO = esophagus,  D = defect, LA = left atrium, LV = left ventricle, RA = right atrium, RV = right ventricle.

From 23  Fig.5   Transesophageal cross-sectional echocardiogram after surgical repair in a patient with Lutembacher's syndrome.  Cross-section is horizontal.   Interatrial septum is seen continuously .       IAS = interatrial septum.  

 

24.  Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, Ichie Y.   High speed rotating scanner for transgastric sonography.    Am J Roentgenol. 135:627-629, 1980

From 24   Upper Fig.  Intragastric high speed rotating scanner.  Small transducer in stomach is rotated by flexible rotating shaft and motor at 15-50 cycles/sec.    Lower Fig.  Transducer and commutator in oil bag.              

From 24    Horizontal scans through left kidney in normal adult with intragastric high speed rotating scanner.      Left : Left kidney and abdominal aorta are seen clearly.  If amplitude of near field is relatively low, pancreas is seen as anechoic space near stomach wall.    Right : With increasing amplitude of near field, pancreas assumes cloudlike shape.

 

25.  Hisanaga K, Hisanaga A, IchieY, Hibi N, Nishimura K, Kambe T.    High speed rotating scanner for transesophageal cross-sectional echocardiography.   Am J Cadiol. 46:837-842, 1980  

From 25     Diagrammatic illustration of the transesophageal high speed rotating scanner. A small transducer in the esophagus is rotated through a full 360° through a flexible shaft by a motor at 15 to 50 cycles /s.  Although the small transducer is rotated with great speed in the patient's esophagus, no damage results because the transducer is safely enveloped in an oil bag. 

From 25   Transesophageal high speed rotating scanner. 

From 25    Transducer and commutator in oil bag.  Sound energy is coupled to and from the transducer through the slip-ring commutator because of the full 360° rotation of the transducer.  

From 25     Transesophageal cross-sectional echocardiograms in a patient with mitral stenosis.  The cross section is horizontal and shows the heart as viewed from the cardiac apex.     A : a frame during diastole and B : a frame during systole.   A stenotic mitral orifice(in A) is seen between the tips of the thickened mitral leaflets.   The interatrial septum (IAS) is seen without dropout.    AML= anterior mitral leaflet,  ESO = esophagus,  IVS = interventricular septum, LA = left atrium, LV = left ventricle,  PML = posterior mitral leaflet, RA = right atrium, RV = right ventricle, TV = tricuspid valve.    

 

26.  Hisanaga K, Hisanaga A, Nagata K, IchieY.    Transesophageal cross-sectional echocardiography.    Am Heart J 100:605-609,1980

From 26   Transesophageal horizontal scan at the level of the aortic valve.  The aortic cusps are closed in diastole.  Large left atrium is seen.  Right ventricular outflow tract is seen anterior to the aorta.   AV = aortic valve, RVOT = right ventricular outflow tract.

From 26    Transesophageal vertical linear scan through the pulmonary artery in a normal subject.  Bifurcation of pulmonary artery and part of ascending aorta are seen.      AO=aorta, PA=pulmonary artery , BI=bifurcation of pulmonary artery.  

       

27.  久永光造、久永朝香、神戸忠  内視鏡的超音波断層法の検査手技と腹部断層像の同定---胃内脱気水充満法について   日本超音波医学会講演論文集 374134141980

Hisanaga K, Hisanaga A, Kambe T.   Transgastric sonography and examination technique.    Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine  37:413-414, 1980.   Optic guidance.  

Photography of original paper  

From 27    Horizontal scan through the stomach posterior wall in a normal adult by using the transgastric sector scanner with gastrofiberscope when the stomach was filled with water.         Left kidney is seen clearly.    SW = stomach wall, LK = left kidney, V = vertebra, R = right, L = left.  

Content of this paper is filling stomach with water during EUS  examination in order to increase acoustic contact between stomach wall and transducer.  Hisanaga performed this method in 1980.  

 

28.    Hisanaga K, Hisanaga A.   Transesophageal cross-sectional echocardiography with mechanical scanning system. In Hanrath, Bleifelt and Souquet, eds. Cardiovascular Diagnosis by Ultrasound. Martinus Nijhoff Publishers, pp239-245,1982.     

 

From 28    Fig.6   Horizontal scan in a normal adult.  A part of aorta (A) is seen.     

There is this paper in internet.  In internet, as references of my paper appear at first, please scroll down, then my full paper will appear.        Please click here.

 

29.  Dimagno EP, Regan PT, Wilson DA, Buxton JL, Hattery RR, Suarez JR, Green PS.   Ultrasonic endoscope.   Lancet 1:629-631, 1980   Notes : not human but animal(dog)      

 

30.  Strohm WD, Phillip J, Hagenmuller F, Classen M.   Ultrasonic Tomography by means of ultrasonic fiberendoscope.   Endoscopy 12:241-244, 1980       Transgastric mechanical scanner.

 

31. Fukuda M, Hirata K, Saito K et al.  On the diagnostic use of echoendoscope in abdominal diseases. . Diagnostic experiences with a new type echoendoscope on gastric diseases.  Proceedings of Japan Society of Ultrasonics in Medicine 37:409-410, 1980

 

31A.  久永光造、久永朝香  超音波内視鏡診断----検査手技と腹部断層像 外科治療  445587-5931981

 

32.  神戸忠、西村欣也、日比範夫  心臓の超音波断層法入門  金芳堂 1980

 

33.   Hisanaga K, Hisanaga A.   Measurement of defect size of atrial septal defect by transesophageal two-dimensional echocardiography.    Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine 38:5-6, 1981

Photography of original paper

From 33  Table 1 Ten patients studied and results.

From 33   Comparison of defect size(operative findings) with transesophageal 2D ECHO measurements.

From 33    Fig.2    Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with an ostium secundum atrial septal defect. Cross-section is horizontal. D=defect.   

 

34.   Hisanaga K, Hisanaga A,Isaji F.   Transesophageal two-dimensional echocardiographic diagnosis of left atrial myxoma.       Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine  39:457-458, 1981

From 34    Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with a left atrial myxoma.   Cross section is horizontal.   A stalk of the tumor is seen clearly.     K = stalk.  

From 34   Extracted tumor.  Weight of the tumor was 38.5g.

 

35.     Hisanaga K, Hisanaga A.     Findings of coronary artery by transesophageal two-dimensional echocardiography.     Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine  40:171-172, 1982

From 35   Transesophageal two-dimensional echocardiogram in a patient with both aortic regurgitation and mitral stenosis.  LCA = left coronary artery, RCA = right coronary artery.    

 

36.  Hisanaga K, Hisanaga A.   Transesophageal pulsed Doppler echocardiography (Third report):Development of system without mirror and initial clinical results.   Proceedings of the Japan Society of Ultrasonics in Medicine 40:399-400.1982

 

37. Hisanaga K, Hisanaga A.   Transesophageal echocardiography with a mechanical scanning system.  In: Hanrath P, Breifeld W and Souquet J eds.   Cardiovascular Diagnosis by Ultrasound.  Martinus Nijhoff Publishers pp239-246, 1982

 

38.   Souquet J.     Phased array transducer technology for transesophageal imaging of the heart ---Current status and future aspects---.   In : Hanrath P, Bleifeld W and Souquet J eds.   Cardiovascular Diagnosis by Ultrasound.    Martinus Nijhoff Publishers, pp251-259,1982      Notes : human 

From 38  Mitral valve prolapse.

 

39.  Souquet J, Hanrath P, Ziteli L, Kremer P, Langestein BA, Schulter M.    Transesophageal phased array for imaging the heart.    IEEE Transactions on Biomedical Engineering, 1982, 29:707-712

Jacques Souquet, PhD.  From Eugene A Hessel et. al.  Evolution of Perioperative Echocardiography.  Anesthesia Key.

 

40.  Yamanaka T, Sakai H, Yoshida Y,Kawamoto C, Ueno N, Kumagai M, Horiguchi M, Nagasawa S, Tanaka M, Seki H, Ido K, Kimura K.   Ultrasonic endoscopy for the diagnosis of abdominal lesions.  Gastroenterological Endoscopy 24:598-607, 1982

Electronic linear array endoscopic ultrasonography .  Human examination. Optic guidance by fiberscope .

 

41.  Dimagno EP, Regan PT, James EM, Buxton JL.    Human endoscopic ultrasonography.    Gastroenterology 83(4): 824-829, 1982       Notes : Human 

 

42. Jodonic B and Wieser H   Erkrankungen der Mitrolklopp.   In: Jodonic B andWieser H eds. Ein-und Zwei-dimensionale Klinische Echo-Kardiographie.Urban and Schwarzarberg  p60, p126  1982

 

43.  竹本忠良、富士匡 肝胆膵診断の新しい展開----超音波とERCPを中心に----医学図書出版 pp1752221983

 

44. Fuku×× M.   Intraluminal Scanning :use of the Echoendoscope and Echolaparoscope in the Diagnosis of intraabdominal cancer.  In: Kossoff G and Fuku×× M eds. Ultrasonic Differential Diagnosis of Tumors.  Igaku-shoin pp190-191, 1984

 次はFuku××氏のこの論文からの引用である。

   The use of a balloon to cover the scanning head and to facilitate the contact of the head with the gastric wall was discontinued. Instead, after routine endoscopic observation by the same fiberscope, deaerated water was introduced into the gastric or duodenal lumen through the thin corrugation channel prepared in the shaft of the scope. This technique, another liquid-filled stomach method, had never been employed in gastric echography because of the suspected danger of erroneously aspirating the gastric contents into the airway during examination.

 上の文の中に

  deaerated water was introduced into the gastric or duodenal lumen.........    This technique, .................had never been employed in gastric echography

  脱気水が胃内あるいは十二指腸の内腔に入れられた。この技法は未だかつて胃の超音波検査で採用されたことはなかった。」とあります。これは胃内脱気水充満法といいますが、この論文の4年前1980年に日本超音波医学会で私が世界最初に胃内脱気水充満法と命名して発表したものです。その時Fuku××先生は私の二つ前で別の発表をしていました。そして、私の発表を聞いて「水を飲まして検査することは危険だ。」と批判し、質問者にもかかわらず壇上に上がって強く非難しました。それにもかかわらず、今まで使われたことがなく(never been employed)と、さも自分が世界最初に行なったように書くとは普通の精神とはかけ離れていると思います。私だったらそのような破廉恥な事は到底できません。

 

45.  竹本忠良、相部剛  超音波内視鏡診断  医学図書出版 pp13-441985

 

46.  DeBruijn N, Clements F   Development of Transesophageal Echocardiography.  In:DeBruijn and Clements F eds.  Transesophageal Echocardiography. pp4-5   Martinus Nijhoff  Publishing,   1987

 

47.  伊藤紘一編 超音波医学の発展をもたらした人達  日本超音波医学会第60回 研究発表会 Supplement p35, p116  1992